寺崎広業と日置黙仙禅師 ④

広業寺開基 寺崎廣業画伯壽像 コピー禁止
広業寺開基 寺崎廣業画伯壽像 コピー禁止
広業寺本尊 及び 辨財天 コピー禁止
広業寺本尊 及び 辨財天 コピー禁止
広業寺玄関及び仮本堂 コピー禁止
広業寺玄関及び仮本堂 コピー禁止

寺崎広業と日置黙仙禅師 ④

 

寺崎広業と日置黙仙禅師 ③よりの続き)

 

広業画伯は大層信州高原が気に入って、殊に上林の地が好きであった。ここに別荘を作り温泉を地獄谷から引いて風呂場を作る計画であった。
然るに別荘の方は早く出来て、しばしば静養に来られたが、風呂の方は容易に進捗せず落成を見ずして逝去した。
この年、巡錫から帰られた禅師が東京の寺崎邸を訪れられた時、遺族から「折角別荘の風呂が出来上ったが、誰も行くものがない、貴禅師が行って下されば故人も喜ぶことでせう」とすすめられて、八月七日に上林に行かれた。温泉は引けたものの仮小屋で、周囲に葭簀が吊ってある。「それでは温泉の開眼を老衲がしよう」と入浴された。
 「草の屋におもはぬ月のさす影にこヽろを洗ふ新温泉かな」の作句。
湯から上って広間に休まれると、流石、広業画伯選定の地だけあって、筑摩川の清流は蜿蜒と流れ、妙高、黒姫の山峯や白馬山脈が前方に聳えて實に壮観である。
その夜は広業居士の霊に回向され、寝につかれた。
その夜、居士が禅師の枕頭に立って「よくお出で下された、何卒この別荘を寺にして下さい」と申し出るので、禅師は「ヨシヨシ」と答へられた。
夢さめて今のは広業であったかと不思議の思をなし、直に三浦広洋氏をおこして、實はこれこれと夢見を物語られた。広洋氏は寺崎家へ報告し、門弟等評議の結果、禅師さへよろしければ差し上げて寺と致しませう、といふことになったのである。
 有風有月有温泉 無酒無友無主催 浴後山房閑臥夕 夢痕相見宿因縁
と吟じられてゐる。
かかる不思議の因縁を以て出来たのが広業寺である。寺号は永平寺門前にあった長寿院の寺号を移して長寿山広業寺と名付けられ、温泉は長寿温泉といふのである。後に永平寺直末となった。
禅師最後の法輪を転じられた所として、禅師の精神はこの地に留ってゐられることであらう。大正九年八月十五日より二十四日まで留錫静養遊ばされた上林の地、徳化宏大な広業寺開創の因縁を思ふのである。
 

 以上「日置黙仙禅師伝」参照


尚、日置黙仙禅師は北越巡錫の為、永平寺東京出張所を発錫し、信州渋溫泉の奧上林の寺崎廣業画伯の旧別荘に赴き、約十日間留錫した後、八月二十四日、体調不良の中「勤まるか勤まらぬか、行く所まで行こう」と云って、越後の水原駅在駒林の養広寺御親化戒場に転錫し、そこで倒れ、尿毒症と腦溢血とを発し昏睡状態に陥いり、大正九年(1920)九月二日、禪師は新潟県養広寺にて世壽七十四歳で遷化した。

 永平寺六十六世、日置黙仙禅師 参考