寺崎広業と日置黙仙禅師 ③

寺崎広業 扇面画 コピー禁止
寺崎広業 扇面画 コピー禁止

寺崎広業と日置黙仙禅師 ③

 

寺崎広業と日置黙仙禅師 ② よりの続き

 

これより画伯は苦心して、畢生の大作ヒマラヤ山の全景描写にとりかかった。
完成した大作の表装は京都へ送られ、それが出来上って画伯の許へ届いたのは、大正八年二月十日であった。画伯はこの頃不治の重病に罹り、再び起つ能はざる状態であった。
早速家人によって荷造は解かれ、病床に運ばれて展開された。重患の画伯は苦しい病床より屏風を凝視して、苦心の作に会心の笑をもらし、大層安らぎを覚えられた。
(これより画伯は三浦広洋氏に代筆を命じ寄進書を書かしむ)
その夜、地方巡化より帰京せられた禅師はヒマラヤの屏風到着と画伯の容態を聞かれた。
翌二月十一日は紀元節の為、禅師は拝賀に参内の前、三師を従へ寺崎画伯を見舞はれた。
画伯はあたかも親父に甘える如く禅師の来訪を喜ばれた。「かねて依頼をうけて揮毫し、表装なったヒマラヤ全景の屏風が昨日京都より届き、寄進書を認め置きました。御受け下さい」とのことであった。禅師は有難く受けられた。
禅師は直に揮毫の用意を命じて、大書院に展開されたる屏風一双を凝視せられ、さすが巨匠の精魂をこめられた大雪山の全景であると、いたく満足を覚えられた。
禅師は筆を執って屏風の前に進まれるや、下書されるでもなく、中途一字を考へられるでもなく、只無造作に、曽てヒマラヤを大観された時作られた律をスラスラと書かれた。


  五天竺土佛陀蹤。山脈貫通神氣鐘。白雲猶存童子昔。紅霞重現荘尊容。
  日生染出黄金色。雲迸描來水墨龍。瞻此仰之人識否。千秋鎭國最高峰。


と賛せられたのである。文字は達筆雄勁にして、側にある者をして驚嘆せしめた。

(中略)翌十二日払暁、重ねて画伯を病床に見舞はれた。禅師は親化巡錫に寧日なき御身であるので、若し画伯終焉の報至っても帰京は出来ないかも知れぬ。画伯は今まで昏々として休んでゐたが、禅師の問疾の声に眼を開いて、痩せ衰へた手を差し伸べて堅い握手が交された。いとも閑寂にして千万無量の一時であった。

禅師は諄々として道元禅師の因縁を説き、「死生を超脱せよ」と教海されて、改めて「澄心院大悲広業居士」の法号を授けられた。画伯は静かに合掌して「有難い」の一言をもらされた。禅師は机を枕頭に置いて香華燈燭を供へ、白檀の数珠を画伯合掌の手にかけ「釈迦牟尼仏より嫡々相承して我に至る、我今汝に授く、汝今身より仏身に至るまでこの事よく護持すべし」と御授与になると、画伯は眼を開き涙の露を宿して禅師を見、「有難い」の一語あるのみであった。禅師もこれをみつめられ、眼々相対して更に影像なしの有様である。「衲も後から行く、席を設けて待ってゐて呉れ」との暖い言葉であった。涙に咽ぶ夫人に「後程誰か血脈を取りによこすやうに」と申し置いて帰られた。画伯は何時までも、禅師の後姿を合掌のままに見送られた。これが広業画伯との今生の離別となったのである。
(三浦広洋氏は禅師から血脈を受け取られた後)
広洋氏は直に血脈を画伯の合掌の手へ渡すと「有難い」とおし戴いて枕頭に置き、眠に入られた。その翌日、画伯は詰めたる門人を呼び一々、「お前はかう」「お前は筆致を少し」等、画道の奥儀を夫々へ訓誡されて離別を告げられた。生死の安心決定して、まことに従容たる高僧の臨末にも比すべき最後であった。
そして二月二十一日午後三時十五分、遂に長逝されたのだ。世寿五十四歳であった。
まことに前途に富む齢を以て画伯が生涯を閉ぢられたことは惜しいことである。
禅師の御親化先へ訃電は打たれた。帰京が覚束ないので、大佛監院に代香を命じて寺崎邸へ弔問せられ、自ら香語を作って葬儀の代香も命ぜられた。

 

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