寺崎広業と日置黙仙禅師 ②

寺崎広業 画 日置黙仙禅師像 (大雄寺複製所蔵)コピー禁止
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寺崎広業と日置黙仙禅師 ②

 

 寺崎広業と日置黙仙禅師 ① 続き

寺崎広業画伯は「大仏開眼」の傑作を以て近代美術界に嘖々たる名匠である。
画伯と日置黙仙禅師の因縁が熟したのは東京新宿浜野邸の相見にはじまる。
大正二年霜月下旬、絵画に趣味のある浜野氏は邸内へ二、三の画家を招待し鴨猟を行った。
浜野邸の庭園は旧雲州侯の下屋敷で、東京市内屈指の名苑である。(中略)
この頃広業画伯は未だ小石川関口台町の画室が出来上らない時であった。
画伯は宏大な庭園を逍遙して、苑中の雑家を見て、こんな閑静なところで筆を揮ふことが出来たらと歎声を漏らされた。
これを聞いた主人浜野氏は「これはお安い御用です、空いてゐるから何時なりとお使ひ下さい」といふ。
画伯は「左様か、然らばご厄介になりませう」と即座に約束が成立し、翌日から筆硯を携へて日々通ひ、製作に余念がなかった。
ところが翌三年の春頃、日置禅師が上京された。
上京の時は必ず浜野邸が定宿とされてゐた。
主人はこれを好機として禅師を画伯に紹介された。
これが禅師と広業画伯の初相見で、深い因縁を結ばれる端緒ともなったのである。(中略)
色々と話されてゐる中に、ふと画伯は端坐してをられる禅師の姿を、直に筆をとって描かれたのが永平寺所蔵の肖像画である。(中略)

 「夙凭乕嶽入圓通。原昨夢來可睡中。六十九年無所住。覺王山畔打狂風。咦
  尋常一様窓前月。纔有梅花妍不同。大正四年四月十六日 入竺沙門黙仙自題」

大正五年六月十三日は禅師が永平寺入山式に臨まれる為に東京を出発される日であった。
禅師は上野寛永寺に於けるインド詩聖タゴール翁の歓迎会に臨み、歓迎の辞を述べられた。
その後、同席されてゐた広業画伯に向って「老衲は永平寺開祖道元禅師御降誕の霊地を発見し、一寺を建立して報恩の為に致したいと考へてゐる。それにつけて思ふのは、先年インド仏蹟を参拝し、大雪山を展望し、あの大自然の感化が大聖釈尊を生み、また今度来朝のタゴール翁を生んだものと思ふ。そこでヒマラヤの写真を沢山持ち帰ってをりますので、先生の門下生でよろしい、御礼も老衲のこと故たっぷり差し上げられぬが、屏風一双にあの絶景を描いて貰いたい。宝物として永代遺しておきたいと思ひますのぢゃ。道元禅師は日域釈尊の御再来で、この寺へ納める記念として最もふさはしく考へられる。何とかお考へ願ひたいものぢゃが」と依頼があった。
画伯は即座に禅師の決心を感じて「禅師、それは門下の者でなく、私に描かせて貰へませんか。さういふ尊い宝物となるものでしたら、揮毫料も一切無用で、私が精魂こめて描かせて戴き奉納いたしませう」と快諾されたので禅師は大層喜ばれた。
「それはまことに有難いことだ、先生に描いて戴ければ天下の逸品が出来る。お願ひ致します。出張所に写真があるので一緒に行って貰ってお渡ししませう」と申され画伯と乗車して出張所に到着、ヒマラヤの写真を渡し、晩餐を共にせられた。快談夜に及び十一時になった。侍者が永平寺本山へ出発の時間を告げると、禅師は「おお、もうそうなったか、では画伯何分よろしく頼みます。これから越前へ向ひ、本山入山式に行きます」と元気にいはれるのであった。広業画伯も同車して東京駅に至り、禅師の門途を祝福し見送られた。

 

 続く 寺崎広業と日置黙仙禅師 ③