寺崎広業と日置黙仙禅師 ①

廣業山水画譜 永平黙仙題 (コピー禁止)
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寺崎広業 江山秋色 夏渓積翠 (コピー禁止)
寺崎広業 江山秋色 夏渓積翠 (コピー禁止)

寺崎広業と日置黙仙禅師 ①

寺崎廣業と云っても今では余程美術に詳しい人でない限り、知る人は少なくなってしまった。
寺崎廣業は慶応2年(1866年)2月25日に生まれである。
祖父の廣道(ひろみち)は秋田藩家老であったが子に恵まれず、養子に廣知(ひろとも)を迎え、その最初の妻(ヒサ)の子として生まれた。
しかしヒサが離縁された為、乳母、祖母の手で育てられた。
幼き頃より絵を描くことは周囲の人々が驚く程上手であった。
東陽堂「絵畫叢誌」の仕事をしたのを始めとし、明治31年に美術學校助教授、明治34年には美術学校教授になった。
日本画家として文展審査員、帝室技芸員として画壇の巨匠となり、代表作に「大仏開眼」「瀟湘八景」「高山清秋」「渓四題」「秋山雨後」「白馬岳八景」などがあり、歴史画、美人画、風景画と幅広い作域に優れた作品を残した。
門人も交遊も多く、広大な屋敷に住み豪華な生活をし、信州上林には別荘がある。
大正8年(1919)2月12日、永平寺日置黙仙禅師は寺崎廣業の病床にて、白檀の数珠を画伯の手にかけ、「澄心院大悲廣業居士」の法号を授け、菩薩戒法を授けた。
その後間もなく、同年2月21日に54歳で亡くなった。

寺崎廣業の絵で一際世間の注目を浴びたのは「大佛開眼」であろう。
「大佛開眼」の絵には大佛は一切描かれてなく、蓮華の台座の前に集まった人々を描き、そこで荘厳な開眼儀式が営なまれている樣子を描くことによって、目前に大佛が座しているのを描き切った。

村松梢風著の「本朝画人伝巻五」には次のように書かれている。

明治四十年に、第一回の文部省美術展覧會が開催され、廣業は審査委員になつた。所謂文展であつて現今の帝展の前身である。此の年廣業は四十二歳であつた。
此の文展第一回に廣業は「大佛開眼」といふ大作を出品した。この繪は縦七尺五寸八分、横一丈六寸二分といふ途方もない大物で、畫面の左上方に大佛の蓮華䑓だけを現はし、其の下に數多の人物を描いたものであつた。
これは可成り前からの腹案だつたが、途中で奈良へ行つて東大寺や法隆寺の資料を調査した結果、構圖に幾度か變化を來した苦心の大作だつた。
何しろ大きいものだから美術學校の二階で制作してゐたが、會期は迫つて來るし、學校では都合が悪く、半ばから自宅へ運搬したが、當時廣業は根岸から神田白壁町へ移つてゐた。
白壁町の家は三階は畫室であつたが、何しろ大きいので家に入らず窓を切り、壁を抜き、足場を掛けて漸く三階の畫室へ運び入れた。
それから廣業は晝夜ぶつ通して製作に從事し、大勢の門人を助手に使つて彩色を手傳はせた。階下ではそれらの人々の爲めに炊出しをするといふ騒ぎ。(中略)
漸く會期に間に合つて出品すると、果して世間の大評判になつたが、然し廣業自身は不滿で、「あれはもう一度描き直して見たい」と言つてゐたが遂に果す機會はなかつた。

(本朝画人伝巻5 村松梢風著 雪月花書房出版)

 

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寺崎広業 印譜 (コピー禁止)
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