観光地であった愛宕山の上には、愛宕館という旅館を兼ねた食堂が明治22年(1889)12月に開業し、その横に五階建の愛宕塔(展望搭)が建っていた。
しかし愛宕塔は大正12年(1923)の関東大震災で倒壊し、愛宕館と共に取り壊され、大正14年(1925)その跡地にJOAK東京放送局の局舎が建てられた。
同年7月、芝浦の仮放送所での試験放送開始から4か月後、ラジオの本放送がこの地から始まった。
その後、局舎は昭和13年(1938)12月20日に竣工した東京都千代田区内幸町の施設に移転した。
「NHK 放送記念日特集 放送開始四十周年」
○芝浦から放送センターまで
昭和40年3月15日発行
「放送の夜明けから現在まで」
●NHKが歩んだ四十年の道のり
三月二十二日は放送記念日
―― アー アー ・・・・・よくきこえますか?、きこえますか?。
これがいまから四十年前の歴史的なコール・サインだった。
時は大正十四年三月二十二日午前九時三十分、ところは芝浦の東京高等工芸学校につくられた社団法人東京放送局の仮スタジオだった。
レシーバーをかけ、受信機にかじりついて、雑音のあいだからきこえてくる放送に大さわぎをしてスタートしてから、もう四十年。
いまでは、放送開始から十二年を迎えたテレビ放送とともに、その電波はラジオ九九・七パーセント、テレビ八九パーセントの地域へと、おどろくべきひろがりをみせている。
放送技術もまた急速な進歩をとげ、よりよい放送へのたゆみない努力は、ついに世紀のオリンピック放送、宇宙中継放送をみごとに成功させた。(後述略)
☆仮放送は「借り放送」
JOAKの仮放送は、愛宕山に局舎が完成するまでは芝浦の高等工芸学校の一部を借りて、これも借りものの放送機とアンテナを使って急造のスタジオで続けたので、仮放送ではなくて「借り放送」だと悪口もたたかれた。電波も今の何百文分の一という微弱さであり、また当時一般が使っていた鉱石式であったから、微弱な電波をとらえるには、どうしても屋外に一〇メートルぐらいの高いアンテナと完全なアースが必要で、しかもネコのひげという細い針金の先で鉱石の感度のよい一点を探りあてるのが一仕事だった。この一点がちょっとでもはずれると、名放送もプッツリと聞こえなくなるので、息を殺して受話器を耳におしあてて聞いたものである。しかし、まもなく固定鉱石が売りだされて、ネコのひげの悩みは解消したが、スイッチ一つで野球や相撲の実況を聞ながらの旅行やキャンプ・ファイヤーを囲んで、ラジオを伴奏にツイスト、サーフィンを楽しんだりできる今日から考えればまったくウソのようである。
編集後記
☆本号の表紙はNHKの東京放送局のあった芝・愛宕山を手前に夜の東京タワー付近をとらえてみました。(撮影・波多野市三)
(参考)東京愛宕山からの眺望
NHK特集グラフ
この「NHK放送記念日特集(放送開始四十周年)」グラフには「放送の夜明けから現在まで」として〝NHKが歩んだ四十年の道のり〟が古い写真を掲載して様々なことが記載されている。
その中の一つを紹介してみよう。
『〝のど自慢〟思いつくまま』と題してアナウンサーの宮田輝が寄稿している。
〝のど自慢〟がはじまって、かれこれもう二昔。
昭和二十一年一月十九日に、はじめて電波にのせたのだが、テストに集った出演希望者は、内幸町のNHK玄関から、霞ヶ関の文部省あたりまで延々と並んだ。
あのころは、何かというと列を作って並んだものだ。外食券食堂、ビヤホール、生活必需物資の配給、等々。――で、「のど自慢」の列も、何かわからないで並んでいて、NHKの玄関近くまで来て、「何の配給ですか?」と、まともにきいていた人があった、というとんだ笑いばなしもある。
この第一回の放送に出た「床屋の英ちゃん」こと下門(しもかど)英二さんは、「のど自慢」合格第一号として、一躍人気者になった。
初期のころ、よく歌われたのは、「赤城の子守歌」、「東京の花売娘」、「リンゴの歌」、「港シャンソン」、「啼くな小鳩よ」、「湯の町エレジー」、「麗人の歌」などを想い出すが、歌詞で「のど自慢」にピッタリしたものもあった。
そう「長崎のザボン売り」で、出演した人も多かった。
「鐘が鳴る鳴る マリアの鐘が・・・・」と自分の歌に酔っていると、とたんに「カーン!」。――そこで、「風がそよそよ 南の風が・・・・」と、いきなり二番の歌詞で歌う人が出て来たり、やはり「のど自慢」は鐘が気になるものである。
「第十八回NHKのど自慢全国コンクール」がいまやたけなわ。
「のど自慢日本一」がきまる「全国優勝大会」も、そこまでやって来た。
第一回からずっと、連続出場という熱心な方もある。昔、ハイティーンだった人も、いまではいいお父さん、どころか、「息子がそのうちやっかいになります」なんて言っている人も出て来た。――