東京愛宕山からの眺望
今では考えられないが、東京のビル群の中にある愛宕山から東京の下町や東京湾が一望できた時があった。
愛宕山は標高25.7meterで東京23区の中では最高峰である。
そのため以前(と云っても相当前だが)、人々はこの愛宕山に上り、眼下に見る景色や桜を楽しんでいた。
長崎抜天著の「絵本明治風物詩」30~31頁には次のように書かれている。
(長崎抜天は明治37年(1904)4月1日に東京芝区新橋で誕生した。)
(第四章 加藤清正象退治)(前述略)
東京の街には幾分の起伏はあっても、山とよぶほどのもはありはしない。本郷から目白の台地、青山から麻布の台地など、高い土地はあっても「あんなもの地ぶくれというのさ」という。強いて探せば、上野山とわたしたちの遊び場愛宕山が山とよばれていた。
もっとも東京タワーなどという無細工なものが出来なかったころは、愛宕山は宮城に次ぐ東京名所だった。観光バスなどなかったから、二十台、三十台の人力車を連ねて宮城から、愛戸山へ団体客が繰り込んだ。
事実、愛宕山の展望は素晴しかった。東京の山の手方面こそ見えないものの、市内の繁華街、銀座、京橋、日本橋、上野、浅草、本所、芝浜あたり――。沖には江戸幕府が外敵に備えて作った、お台場の数々、花川戸の助六のセリフではないが、スモッグなどのなかった東京の空から遠く、「安房上総の山々まで・・・・・・」はっきりと見ることが出来た。
「ほら、山の頂辺がギザギザに見えるだろう。あれが鋸山(のこぎりやま)だよ。ずうっと右をご覧、水平線に霞んで見える島が、伊豆の大島さ。ね、ごらんごらん、三原山の噴煙が見える。今日はいつもより煙が多いようだ。」
わたしを可愛がってくれた近所の学生さんが、そのころあった山上の五階の搭の上で教えてくれた。
又、別の箇所(266~268頁)では
(第四十三章 汽車活動館)(前述略)
(浅草観音さまは)東京見物の地方の人も随分多かった。大方は団体でお参りに来ている。(中略)
(地方の参詣者は)東京までは汽車で来ても、市内見物は、そのほとんどが人力車連ねての見物だ。(中略)
車夫さんは、議事堂前から芝区(港区)へ入ると、特約のめし屋さんへ見物客を案内した。今入町から愛宕下にかけて、そのためのめし屋さんが沢山あった。
食事を済ませると、人力車の行列は愛宕山の、間垣平九郎が乗馬で上下して、評判になった有名な石段前に停まる。
健脚な見物客は、正面の急坂を登るが、自信のない人たちと女性は、脇の女坂と称する、ゆるい方の石段を登っていった。
その頃、愛宕山が東京市内を眺めるのに、一番勝れた場所といわれていた。
一望されるのは、下町方面で、麻布、赤坂、小石川、本郷までは無理だった。
それでも東京湾は直ぐ眼下に見ることができたし、このごろと違って空気も澄んでいたから、房州の鋸山(のこぎりやま)もはるかに見えたし、三原山の噴煙さえ望めた。
(後述略)
「絵本明治風物詩」長崎抜天著 昭和四十六年九月三十日 東京書房社発行
尚、掲載の昇斎一景が描いた「東京三十六景 阿多古山(愛宕山)」の浮世絵では愛宕山から東京湾が一望できる。
又、最近手に入れた「愛宕山の絵葉書」(複製)には次のように書かれていた。
「愛宕山の絶頂」
愛宕山は芝愛宕町の高丘にありて帝都屈指の眺望よき公園なり。
當山は懸崖壁立し正面に二條の石段ありて、嶮しきを男坂と云ひ、緩なるを女坂と云う。
絶頂より眺むれば都下の大半、一眸の間に納むるを得べし。(カタカナをひらかなに直す。)