からたちの花 北原白秋 山田耕筰 ④
先般「からたちの花 北原白秋 山田耕筰 ②」で、からたちの花の詩は山田耕筰の10歳頃のつらい思い出を北原白秋が作詞し、それを山田耕筰が作曲したと書いた。
しかし、北原白秋の故郷「柳川」ではすこし事の経緯が違っている。
山田耕筰に関しては全く言及されず、からたちの花の詩はあくまでも北原白秋の故郷「柳川」のイメージより作詞されたことになっている。
北原白秋生家保存会発行の「白秋と柳川」の本の中では次のように書かれている。
「白秋と柳川」北原白秋生家保存会
(昭和四十四年十一月一日初版発行)
「白秋と柳川」 持田勝穂
「少年時代の映像」4頁
小学校に入学したのは、明治二十四年(1891)の四月、当時は矢留(やどみ)尋常小学校といっていた。現在は沖端大神宮の前に新校舎が移されているが、白秋のかよった寺子屋式の傾きかけた旧校舎は、いまもまだ沖端の片ほとりに残っていて、なつかしい昔をしのばせる。この付近は田圃が多かったので少年白秋は、いつも屋敷の裏から田圃に抜けて、近道をえらんで通学した。そのためか表どおりの人たちは、白秋の通学姿をめったに見かけなかった。その旧校舎の近くの路地に、昭和十年頃まで、からたちの老木が立っていた。いつだったか、白秋が帰省のおり、「ぼくの、からたちの花のうたは、このからたちの白い花から生まれたのだよ」と、なつかしそうに老いたからたちの木を撫でていた姿を思い出す。(後述略)
「白秋詩碑ノート」「帰去來」私注 木俣修 46~47頁
(前述略)白秋は三月十四日、東京を発って一路博多に向かったのである。私は白秋の亡くなった直後、求められた追悼記にこういうことを書きつけた。
「この詩や歌には、単なる思鄕の念というやうなものを越えた悲願とも言ふべきものが籠められてゐると私はその当時ふと思ったことであった。滞留の数日間、先生は心ゆくばかり産土の風物に親しみ旧友縁故の人々に会ひ、学んだ小学・中学に講演された。この機会を外さず柳河への多くの門下は馳せ参じたのであったが、私もその中の一人であった。
三十数年昔の詩集『思い出』にあらわれてゐる水郷柳河の街々や、六騎(ろつきゆ)の街沖ノ端Tonka
John白秋の生家古問(ふつとひ)屋の跡、あるひは後年の童謡『からたちの花』のからたちの木――その詩魂の揺籃となったすべてのものを先生は自身に案内して門下に示された。切ないまでの感激に私どもは一夜それが遊女屋(ノスカイ)であったといふ料亭にのぼって詩篇を歌ひ明かした。勿論その座には先生も居られて感慨深げに黒眼鏡の奥の眼をしばたたかれてゐた。先生の亡くなられた今日、思い返せば、この時の御帰郷はそれとなき産土への告別の為めであった様な気がする。」(後述略)
(参考「白秋と柳川」北原白秋生家保存会 昭和五十六年十一月一日第五版)
(尚、新仮名遣いと旧仮名遣いが入り交じっているが原文のままとした。)
上記のことを考慮すると、北原白秋は山田耕筰のからたちの花のつらい思い出を聞き触発され、「からたちの花」の詩を作ろうと考え、故郷「柳川」の枳殻の花を思い浮かべ作詩したとするのが妥当なのだろうか?。
参考
からたちの花 北原白秋 山田耕筰 ①
からたちの花 北原白秋 山田耕筰 ②
からたちの花 北原白秋 山田耕筰 ③