北原白秋 与田凖一篇
「からたちの花がさいたよ」――北原白秋童謡選――
一九六四年十二月五日 第一刷発行
作者 北原白秋
編者 与田凖一 初山滋 装画
発行所 株式会社岩波書店
編者のことば ――先生方に―― 与田凖一
白秋童謡の母体
北原白秋は福岡県柳川の中学伝習館(現在高校)在学の家郷時代から、早稲田大学英文科生活の第一年ごろまで、当時の新進詩人の登竜門といわれていた雑誌「文庫」に主に長編の詩を発表して英才をみとめられていました。(中略)
白秋二十六歳の明治四十四年六月世に問うた抒情小曲集『おもいで』(思い出)には、その二年前に出していた処女詩集『邪宗門』の作品以前に書かれたものがあり、前記の小曲もそうであり、また『邪宗門』作品と同期に書かれたものもはいっていましたが、この詩集は、白秋自身おどろくばかりの賞賛をもって、日本詩壇にむかえられました。この詩集の散文詩風の長文の序「わが生いたち」はまた、詩作品よりもすぐれているとの声さえあがりました。(中略)
このように『おもいで』も動因となった追憶の対象は、白秋が明治十八年(1885)一月に誕生してから、同三十七年(1904)十九歳の春上京することとなるまでの郷里柳川時代にあたります。(中略)
童謡運動の前後
北原白秋の童謡創作が(そして日本における新童謡の運動が)、大正七年六月の「赤い鳥」(鈴木三重吉主宰の児童芸術雑誌)の創刊によってその機縁をあたえられたことは、すでにひろく知られたところです。その翌年に刊行された第一童謡集『トンボの眼玉』の〝はしがき〟で、白秋はつぎのようにのべています。
〝――昨年からお友達の鈴木三重吉さんが、子どもたちのためにあの芸術味の深い、純麗な雑誌「赤い鳥」を発行されることになりましたので、私もその雑誌の童謡の方を受持つことになって、それでいよいよかねての本願にむかって私も進んでゆけるいい機会を得ました〟(中略)
白秋は幼時に母や乳母たちからきいた子守歌から説きおこし、じぶんはかねてから日本人としての純粋な郷土民謡の復興をこころざしているが、それとともに無味乾燥な唱歌風のものから子どものうたを郷土自然に根ざした伝承童話(わらべうた)の昔にかえさねばならぬ、その上に立ってそぼくではつらつとした感覚にもとづいた素裸の子どもの心を子どものことばでうたい、日本の新しい童謡をきずきたい、とのべています。
作風と特徴
さて、白秋の童謡作品は、選集類をのぞき、つぎのとおりの単行本となっています。
1『トンボ眼玉』大正八年一〇月初版(三九篇)
2『兎の電報』大正一〇年五月初版(三六篇)
3『まざあ・ぐうす』大正一〇年一二月初版(一三一篇)
4『祭の笛』大正一一年六月初版(八九篇)
5『花咲爺さん』大正一二年七月初版(六一篇)
6『子供の村』大正一四年五月初版(四二篇)
7『二重虹』大正一五年三月初版(三二篇)
8『象の子』大正一五年九月初版(二三篇)
9『月と胡桃』昭和四年六月初版(一三八篇)
10『驢馬の耳』未刊(七二篇)
11『赤いブイ』未刊(一〇一篇)
12『七つの胡桃』昭和一七年一一月初版(七二篇)
13『風と笛』昭和一七年一二月初版(六三篇)
14『太陽と木銃』昭和一八年五月初版(八三篇)
(中略)
本書を編むについては、今列記した単行童謡集を底本として、増補改訂のくわえられた全集を校合し、そのなかから文学作品としての一五〇篇を採択、おおむね春夏秋冬の四季といろいろのうた(無季)のグループに配列しました。〝自分の童謡は日本の自然の知慧の祭だ〟といった、日本児童へのその嘱望を考慮しての編集配列ですが、三十数年間にわたる作風の流れとその多彩の詩材をほこる童謡群は、採択の基準と好尚しだいでは、いくとおりの選集に作制することも可能です。(中略)
その個性と普辺性
(前述略)
白秋自身、成年期の峠をこえてすぎる回想体のみちゆきは、もののあわれの芽生えはじめるそこはかとない少年期へとその童謡制作の歩みをたどり、過ぎこし方の童心への内省的気韻と格調をつくります。たとえば〝からたちの花〟や〝この道〟が初期作品から成長して、山田耕筰の曲想とあいまって児童期よりも少年期の歌曲の領域をつくりだしているなど、そのひとつの頂点と見られます。(後述略)
以上
初山 滋(はつやま しげる)
初山滋はこの本の装画を描いている。
さらに、この「からたちの花がさいたよ」の本の「春」の頁の裏に次のように書かれています。
「この本の春夏秋冬のとびらの四つのカットは、北原白秋が生前親しい仲間との集まりの席で、みなの懇望によって演じた『線香花火』のお家芸を懐かしみ、順を追って表現したものです。 初山 滋」
参考
からたちの花 北原白秋 山田耕筰 ①
からたちの花 北原白秋 山田耕筰 ②
からたちの花 北原白秋 山田耕筰 ④