岩村通俊「上川紀行」

岩村通俊「上川紀行」
岩村通俊「上川紀行」

岩村通俊「上川紀行」

「上川紀行 並引」

 明治十八年八月、余、司法太輔に在職す。命(めい)有りて北海道及び奥羽諸裁判所を巡視す。乃ち其の九日を以て東京を發し、十五日札幌に抵る。此の行、上川に至り其の原野を檢す別命有り。余、曩(さき)に開拓判官の時、上川の曠漠肥沃なるを聞き、其の開拓の意有り。幾ばくも無く官を罷(や)めて果たせず。後、会計檢査院長を以て本道を巡視す。究問頗る密にして、益(ますます)其の耕牧に適するを知る。歸京に及び、状を具して、之(これ)當路に甚(はなはだ)悉(くわし)く言うも、未だ其の地を一も蹈まざるを憾(うら)む。今や此の命(めい)有り。喜び望外に出す。上川固より未だ人跡を通ぜず。晝、則ち舟は石狩川を溯り、將に傾覆せんこと屡(しばしば)なり。夕、則ち幕を張りて山に臥す。狼は吠え、熊は哮(たけ)る。其の難苦知る可きなり。因みに他年開拓の業成ることを想う。道路已に夷(たいらか)にして、人烟また蕃る。其の間の往來は馬にて車にて意の如くならざる無し。則ち誰か復た今日の状を知る者有らんや。乃ち其の往復の間の事を記して、以て後に示すと云はん。其の開拓經畧の如きは、別に具する所有り。九月通俊識す。

 八月十九日
朝、農商務大書記官、山内堤雲(炭礦事務所長)と札幌より汽車に乘り、幌内に至り其の炭坑を視る。午下返りて幌向太に至れば、則ち陸軍少將永山武四郎(屯田司令長官)・農商務大書記官長谷部辰連(工業事務所長)・札幌縣大書記官佐藤秀顯(縣令代理)・林昌介(永山随員)・足立民治(長谷部随員)・福士成豊・田内捨六(佐藤随員)・齋藤一馬(余随員)等と來り待てり。
永山、長谷部、佐藤、皆、旨を承けて予と同行する。上川は札幌を距たる四十里許(あまり)、未だ曾て一徑路を通ぜず、足其の地を踏む者極めて稀なり。佐藤・田内は嘗て一たび到るも未だ精しきこと能はず。獨り福士は數、之を探る、實に此行の主人たり。幌向太に宿す。

 二十日
朝、山内と別れ幌向川より舟に乘る。舟は木の腹を刳(くく)りて之を造る。長さ丈許(ばかり)より丈二三尺に至る。幅二尺より三尺、名ずけて丸木舟と曰ふ。
蝦夷は船を造る術を知らず。此れを以て水を行くの具となす。大海と雖も懼(おそれ)ざるなり。一舟わずかに客二人を容る、二客對坐し、浪(みだり)に舷に倚り舳(へさき)に立つを許さず。一たび禁を侵せば、則ち旋轉し覆らんと欲す。
舟ごとに舟子三人、其の二人は土人なり。蓋し上流急湍の處は土人にあらざれば盪(うごか)すこと能はざるなり。
幌向川を泝(さかのぼ)ること丁餘にして石狩川と合す。兩岸の楊柳、蔭を交へ、之を望むに極りなし。岸上は蚊虻多し、好んで人を螫(さ)す。舟の過るあれば則ち樹蔭より來り集り、随て拂へば随て集る。衆皆一紗巾を携へ之を冒(かぶ)る。頭より頸に至るも猶ほ防ぐこと能はざるなり。泝(さかのぼ)ること數里、美唄多布に抵る。洲あり、舟を下りて午餐を喫す。薄暮、樺戸に達す。集治監の在る所。典獄安村治孝迎へて、其の偕樂亭に宿せしむ。亭は石狩川に臨み、清楚にして都會地に見る所の如し。云ふ、前典獄月形潔の治する所と。此の地にして此の結構あり、亦一奇なり。

 二十一日
暁、樺戸を發す。石狩川左右、沮洳(しょじょ)里に渉り、蘆葦、叢生す。地水滲みて川中に入り、水色、混濁せり。漸く泝り漸く清く、數里に至れば則ち澄明、鑑(かんがみ)るべし。午後五時、平洞に抵る。日、猶ほ高し。筵を敷き幕を張り、以て寝臥の具を備へ、時を費やすこと許多(あまた)なり。盡日、力(つとめて)行くべからず。洲に上り飯を炊き酒を温む。此の夜、天に繊翳(せんえい)なく、月色、晶の如く、水聲、潺湲(せんかん)衆、皆、流れに臨みて箕踞(ききょ)し、杯を擧げ、景を賞すること久し。三更、始て幕に入る。

 二十二日
暁、衆、未だ幕を出でず。獨り川上に立てば、爽氣、骨に徹す。六時平洞を發し、尾白利香に抵りて宿す。此の日、溽暑、燬(や)くが如し。夜に至り、蚊群、幕を侵して入る。蚊形、小にして尋常に異なり、名けて糠蚊(ぬかが)と曰く。好んで人の毛髪の間に潜入し、防がんと欲するも得ず。余尤も之を畏る。其の螫(さ)す所や面首及び手足腫起し、状、癬を患ふが如し。痒くして忍ぶべからず。月に渉り京に歸りて猶ほ癒えざるなり。

 二十三日
天、未だ明けざるに、衆を促し舟に上る。午時、小雨。妹背牛(もせうし)に至れば、水聲甚だ激し。舟子、力を出し之を過ぐ。四時、驟雨(にわかあめ)、盆を傾くるが如し。霧多布(註1)に抵りて宿す。夜、大雨、幕を徹して入り、衣衾侵すが如し。中夜屢(しばしば)起て之を避く。

 二十四日
暁、霧多布を發す。夜來の雨歇(や)まず。是に至りて益(ますます)甚だし。午時、始めて晴る。已にして河流、山に從て屈し、之を望めば乍(たちまち)遠く、乍(たちまち)近し。兩岸、樹木蓊欝(おううつ)、枝葉、垂れて流に臨み、刳木舟に乘り其の間を過ぐ。殆ど畫中の人の如し。漸く進めば、則ち懸崖、削るが如く、湍水、奔逸し、跳りて舟に入り、衣袂、皆濕ふ。舟、覆らんとするも屢(しばしば)なり。神居古丹に達すれば、則ち崖益(ますます)高く、流れ益(ますます)激しく、峰巒、河を壓し、老樹千年、眞に是れ神作鬼造、覺えず絶景と呼ぶ。是より春志内に至る一里弱、復(また)舟を行(や)るべからず。乃ち崖を攀(よ)ぢて山に上り、平坦の地を求め、以て幕を張るの處となす。夜月、明なること晝の如し、衆、崖頭に鳩首し相語ること久し。

 二十五日
人を遣はして上川に至らしめ、其の土人を召す。蓋し此れより上川に至る三里弱、河流、懸るが如く、巨巌、其の間に突き出し、上川の土人に非(あら)ざれば舟を行ること能はざるなり。此の日、快晴。衆、行李を披(ひら)き衣物を曝(さら)す。足立・田内等、筆硯を出だし書を求む。乃ち紙を巌頭に展べ、即吟、數首を揮(ふる)ふ。午飯を喫し、巉巌(ざんがん)を踏み進み、春志内に至りて止まり、上川土人の來るを待つ。余、福士が携ふる所の釣竿を垂るれば、則ち獲、蓋し魚、未だ釣を知らず。故に畏れざるなり。亦笑ふべし。魚大きく尺餘、烏鯉(うごひ)と云ふ。即ち、桃花魚なり。割きて下物(したもの)と爲し、團坐酣飲し、衆、皆大に醉ふ。高歌放吟、暁に至りても止まず。

 二十六日
午時、上川土人二十一人、舟七雙を以て來り迎ふ。余等の乘る所に比すれば較(やや)小なり。蓋し此れより上流は皆、急湍激流、交ゆるに亂巌を以てす。小舟に非ざれば、回避すること能はざるなり。夜、上川土人に飲ましむ。土人、自ずから尊卑長幼の序あり。其の余等を見るに、各々次を以て跪踞(ききょ)し、兩手を擧げて額に至り、又掌を合せて拝すること六七回。其の酒を飲むに臨むや、長者、先づ箸を酒に浸し、空に播き地に灑(そそ)ぐこと數回。曰く天地河嶽の諸神を祭ると。禮了りて始て自ら飲む。其の酔うに及びて、長者先づ起ち、膺(むね)を捬(う)つて謳ひ且つ舞ひ、少者一齊に之に和す。曲は解すべからずと雖も、其の音、鳴鳴 、自ら悲越の情あり。維新以後、府縣より本道に移住する者、日に多きを加へ、土人と雑居す。土人、亦稍(やや)其の言語風俗を習ひ、一見、其の土人たるを辨ずること能はざる者あり。獨り上川に至りては則ち人世と隔斷し、依然として其の舊を改めず。今に土人の眞面目を見るもの唯上川あるのみ。而して此の行、余は司法太輔を以て東京より來り、佐藤は本地方官を以て、永山・長谷部は各々所屬長官を以て來り。酒と物とを賜ふ。彼等、驚喜、措く能はざるの状あり。

 二十七日
暁、春志内を發す。巉巌(ざんがん)、河中に錯立し、流水奔(はし)りて之に觸れ、砕けて雪の如し。舟、其の間を過ぐ、嶮甚だしく危甚だし。舟子乃ち棹を擧げ、舷を叩く。云ふ、河神に禱りて以て覆没を免るヽなりと。八時、上川に達し、近文山に上る。山は川を距ること十餘丁、原野を一矚すべし。時に微雨瞑曚(めいもう)、眼を馳する能はず。既に雨霽れ雲散じ、山河形勢、歴歴睫上(しょうじょう)にあり。余、此の行を圖る年あり。而して職事鞅掌、東西を奔走し、之を果すこと能はず。今や山に臥し野に宿する六日、始て此に至る。天にして知る有らば、亦當に雲霧を披きて以て相酬ふべきなり。乃ち福士をして全景を寫さしむ。上川、東西約四里、南北七里、石狩嶽(註2)高く半空に聳え、遠く十勝・忠別の諸峰と相接し、群巒重畳、波の如く濤の如く、起伏際り無し。而して石狩・美瑛の諸川、其の間を貫絡す。皆曰く、何ぞ甚だ西京に類するや。是れ實に我が邦、他日の北都なりと。蓋し石狩嶽は比叡山に似、其の川は鴨川の如くにして、規模の大、遠く之に過ぐるなり。行厨を披きて一酌す。午時、山を下り舟に上る。舟の疾きこと箭の如く、瞬間に春志内に達す。即時歸途に就き、霧多布に抵りて宿す。

 二十八日
前二時、霧多布を發す。舟、已に流れを逐ひ、輕駛して棹を留めず、將に明日を以て札幌に歸らんとす。時に萬籟、聲を収め、淡月朦朧、水色烟の如く、欵乃、其の中を過ぐ、風流の遊び、亦之に加ふるなし。下ること七里許、天始て明く。後三時、樺戸に抵り、又偕樂亭に宿す。初め樺戸を發せしより舟行七日、未だ嘗て一たびも安眠せず。此に至りて沐浴し寝に就く。爽快言ふべからず。

 二十九日
前、三時樺戸を發す。雨ふる。八時、幌向太に抵り汽車に上る。十時、札幌に達す。夜、一行諸人を公園の偕樂亭に饗す。皆曰く、上川を檢するは吾人を以て嚆矢(こうし)とす。宜しく一碑を近文山に建て、以て永く不朽に垂るべしと。余をして文を撰せしむ。乃ち數言を草して以て之を附す。曰く、
明治十八年八月、岩村通俊・永山武四郎・長谷部辰連・佐藤秀顯等、各以官事登此山。則山河圍遶、原野廣大、實有天府之富。他年大道如砥、都府已成、相與再登、擧杯酣飲、以談今日也。乃相謀建碑、以遺之後云。

 余、此の行を了へ、十月を以て歸京す。則、縣を廃し廳を置くの議有り。十九年一月、余、司法太輔より轉じて北海道廳長官となる。二月赴任し、經營規畫す。一にして足らず。二十一年六月、免官し閒職に就く。其の本道に在りしこと僅か二年餘。心事、途にして廢せらる。通俊の憾や大なり。今茲に偶(たまたま)紀行を出して之を讀む。往事茫茫として宛も夢寐の如し。所謂、近文山上、杯を擧げての酣飲は、果たして何れの日にか在らん。知らず誰か通俊に繼て、通俊の志を成す者を。噫(ああ)。
 明治二十六年一月
  通俊再び識す。

(「貫堂存稿」の原文は漢文の爲、読み下し等に間違いがある場合はお許し戴きたく存じます。)

 

国見の碑(開拓記念碑) 絵葉書の文章作成加工:風間
国見の碑(開拓記念碑) 絵葉書の文章作成加工:風間

(註1)霧多布(現在の深川市付近)

(註2)石狩嶽(大雪山旭岳)

 

※尚、上記「上川紀行」は「貫堂在稿」(再本上巻)の101頁より107頁を参照し掲載した。

 

岩村通俊は北海道と縁が深い。

岩村通俊は、明治初年より聴訟司判事、箱館府判事、開拓判官となり、蝦夷を北海道と改め、箱館を函館となった後、札幌の市街創成のみならず北海道の開拓に力を尽くしていた。

又、彼は早くから北海道の中央にある「上川」の開発に注目していたが、しかし命によって北海道を離れることとなり、佐賀県令、鹿児島県令などを歴任し、明治十三年に元老院議官、明治十四年に会計検査院長となった。


明治十五年、北海道三県を巡視した後、「奠北京於北海道上川議」を建議し、明治十八年に司法太輔の任にあった時、上川原野視察を命じられ、「上川紀行」を実行し実際にその眼で確かめ、函館より郵送で「奠北京於上川議」を内閣に提出したのである。

 

右の古い絵葉書は「上川紀行」で(現)旭川市江丹別町嵐山(近文山上)にある岩村通俊等の建てた碑の写真である。

明治十九年、白野夏雲が岩村通俊の碑文を書きこの地に建立した。
今は旭川市の文化財で「国見の碑」となっている。