貫堂存稿「奠北京於上川議」
奠北京於上川議
謹て白す。通俊、曩(さき)に會計検査院長を以て北海道を巡視す。上書し北京(ほっきょう)を上川に建設し、殖民局を置き以て之を管するの議を上書して、以て通俊十數年の素志を述ぶ。得失利害、備(つぶ)さに其の書に在り。故に復た此に贅せず。頃(このごろ)本官を以て、再び北海道を巡視するなり。内諭有り曰く、此の次は宜く上川に赴き能く其の土地の形勢如何を察すべしと。乃ち路を札幌に取り、石狩川に泝(さかのぼ)ること五十里。露宿六夜、始て上川に達し、近文山に登る。偶(たまたま)雲霧瞑朦、眼を馳すること能はず。已にして雨晴れ雲散し、山嶽原野、歴歴として目睫(もくしょう)に在り。欣然として以爲(おもえらく)、是れ上川開くの前兆なりと。蓋し其の地を概見するに、東西四里、南北七里ばかり。石狩、忠別、美瑛等の諸川、其の間を貫穿し、而して石狩嶽高く東方に聳え、遠く十勝、忠別の諸峰と相接し、群巒起伏して、其の状(かた)ち波濤の如し。若し一たび北京を此に開かば、所謂(いわゆる)山河襟帯、自然の城なり。通俊、一たび此の地を踏み、其の實の聞く所に倍するを知る。前議を執ること益(ますます)固し。
惟(ただ)行路の一事は初見と異なるものあり。通俊、初め以謂(おもえらく)、少く石狩川を浚(さら)へば則ち以て舟楫(しゅうしゅう)を通すべしと。今之れを實見するに及て、則ち然らず。幌向太より樺戸に至る。洋洋として平地を行くが如し。樺戸を過て則ち水淺く流急にして大船を行(や)るべからず。
而れども陸は則ち反(かえ)つて便なるものあり。札幌より汽車にて幾春別に至り、幾春別より空知太に出て、十里二十六丁、皆平野にて少しく工夫を加へば、
則ち善道と為るべし。空知太より神居古丹を經て上川に至る十四里も亦(また)然り。惟(ただ)其の神居古丹を出るの前、内達夫山あり。道を其の腹に作りて而して之れに由らざるを得ず。然れども其の山高からず。里程も亦(また)短近なり。若し更に實測を經ば、其の峯巒起伏の間、自から平坦、以て路と為すべきものあらん。抑も路を無人の境に作る、川に由るより陸に縁るに若かず。陸に縁れは則ち沿道招かずして人集り、土田も亦(また)自から開けん。是れ亦(また)通俊の餘意なり。
夫れ上川の地勢は彼の如く、道路の便利此の如し。伏して請う廟議速かに決し、先ず殖民局を上川に置き、以て北京の地を奠(さだ)むらんことを。雖然(しかりといえどいも)上川は荒蕪(こうぶ)なり。俄かに局を開くべからず。故に假りに之を札幌に置き、而して道路の測量開築し、驛逓、伐木、廳舎の工事至るまで、一に之れが經画を爲し、而して後、當さに本局を上川に移すべし。此の間、費を要すこと兩三年。然らずんば費多くして益少し。人勞して功擧がらん。或は曰う、上川の美は已に其の説を聞く。然れども上川は札幌を距ること四五十里。眞に是れ無人の境なり。況んや山深く雪堆(うずたか)し。水陸、物を輸するに甚だ困しむ。而して民を此に移して、稼穡(かしょく)の艱難を執らしむ。亦(また)太だ難からずや。通俊、以為(おもえらく)然らずなり。札幌より幾春別に至る汽車已に通ず。郁春別より上川に至る、僅に二十五里。道を開き驛を置き、車馬往来せば、則ち其の一歳の需用の物は之を馬に駄し、之を船に載せ、以て之れが運輸を為す。何の難きことか之れ有らん。其の稼穡(かしょく)の艱難の如きは、誠に言ふ所の如しと雖とも、而れども試に近海地の民農を視るに、農を捨て而して
漁利に走り、動(やや)もすれは家産を破る者、十に八九なり。上川の如きは之れに反し、一たび往きて而して其の地に住せば、一意力を出し精を尽し、以て其の農に從はざるを得ず。則ち他年、資産自から起り、人おのおの其の土に安んず。是れは之を死地に投じて、而して後、之を生かすもの也。且つ上川の一たび開けば、工商必ず蝟集(いしゅう)せん。所謂(いわゆる)金、散ずれは則ち人集る。之を札幌、樺戸、空知に徴するも、亦(また)知るべき也。
通俊、切に恐るる所は、反(かえ)つて其の移る者の多きありて、其の少なきに在らず。
或は又曰く、今札幌を見るに、戸口日に凋落す。然るに之を措て、而して上川を開くは、則ち札幌の衰える、ますます甚だし。如からず、先ず札幌近傍の原野を開き、漸く上川に及ぶ。
通俊以為(おもえらく)此の論、狭少なり。其の一を知りて、而して其の二を知らざる者なり。蓋し上川、已に開かば、凡そ貨物の此に輸するもの、一として札幌に由らざる無し。則ち札幌も亦(また)自から其の利を受け、而かも其の利大なり。獨り力を札幌
に盡くすのみならば、則ち札幌独り其の利を受けて、而して上川長く無人の境たらん。而かも札幌受くる所の利も亦(また)小なり。況んや札幌近原已に開くべきの地の乏しきかな。夫れ上川は全道中央の地たり。經画已に定まる。此れより路を根室に通じ、而して釧路より横に北見に貫き、則ち東西南北、所として至るべからざる地なし。是れに於て全道の基本始て立つ。若し夫れ本局の組織、經費の支出は廟議に待つことあり。通俊敢て言はず、伏して採澤を請う。誠惶頓首
この書は明治十八年、上川を踏み検し、函館に至りし時、其の旅館に於いて起艸し、内閣に郵呈せるものなり。その頃たまたま筺(はこ)底より之れを得、敢えて當時の所見を言わざるも、一も遺算無し。しこうして今、上川は田圃、日に開け人口日に冨み、殷然として本道の大都なり。則ち是れ通俊も亦(また)ともに餘榮あるものか。しからざるか。今昔の感に堪えざるなり。
明治三十五年八月 通俊識す
※上掲載の画像及び文章は『貫堂存稿』よりのもの。
『貫堂存稿』は故岩村通俊の遺稿より岩村八作が纏めて、大正四年九月五日に上下二巻として発行した書籍。その後「男爵岩村通俊」の銅像建設記念として上下二巻を一冊にして昭和九年六月十五日再発行し関係者に頒布した。
私が蔵書しているものは上下二巻を一冊した『貫堂存稿』で、その内108頁から111頁にこの『奠北京於上川議』が掲載されている。