西條八十と飯坂温泉 ③
西條八十、中山晋平は飯坂小唄制作を快く引き受け、作詞作曲したが、一人西條八十は当初この飯坂温泉の唄を頼まれたとき、ある思いが頭をよぎったことであろう。
それは彼が二十一、二歳の頃の苦い思い出である。
そのことを小説化したのが西條八十著「みちのくの戀」である。
西條八十は明治25年(1892)1月15日、東京府東京市牛込区拂方町で、父重兵衛、母トクの三男(次男)として生を受ける。
(戸籍上、長男は父の弟が養子となっているので、事実上は父重兵衛の次男である。)
父は西條家が代々続く質屋「伊勢屋」をしていた頃の番頭であったが、嫡男(丑之助)が亡くなった為、その許嫁(トク)と結婚し西條家を継ぐことになった。
又、父は家業の質屋を止めて、時代の先端を見据え石鹸の製造販売を始め、大いに繁昌していたのである。
自著『みちのくの戀』「あとがき」(141頁~142頁)には次のように記してある。
「わたしは東京牛込のかなり富裕な石鹸製造業者の次男に生れ、父はわたしを法律上の戸主に指定して、わたしの十五歳の春に死んだ。」
続いて次のようにある。
「ところがその後放蕩な兄は、わたしに宛てられた遺産を、後見人である母から全部買受けの法律手続きをして、わたしが成年に達するまでにほとんど費い果たしてしまった。若い大学生は一夜、芸者と出奔して行方不明の兄の話を、悄然として独り残された若い嫂(あによめ)の口から聞いて、驚愕したのである。」
この時、西條八十は早稲田大学二年の学生であった。
「その夜から、老母と、弟妹を抱えた無一文の学生戸主の漂泊が始まった。兄を探しだして幾分でも資産を取り戻し、生活を安定させたい悲願から、わたしは、箱根や伊豆地方を隈なく歩いた。そうして最後に、この物語(みちのくの戀)の中に出てくる川口という悪番頭が放蕩の兄を操っていることを悟り、仙台や福島地方をめぐって、飯坂温泉で、やっと兄弟のめぐり逢いをしたのである。」
しかし、そんな苦労をして兄から父の遺産の権利書や有価証券、実印を取り戻したのであったが、実印の表面が削り取られていて使用不可能となっていたのである。
結局、西條八十の父の財産分与の件はすべて徒労に終わった。
その後の西條八十のことは「かなりや・西條八十(二)」に続くと云ってもいいだろう。
この『みちのくの戀』の本の中で兄の投宿先は「翡翠館」となっているが実際は違う。
「兄たちが三月以上も滞在していた旅館は、今も残っている『花水館』である。」と記されていて、さらに「その後わたしは『飯坂小唄』などという新民謡を書くようになって、度々飯坂へいったが、どうしても若い日の回想が苦しく切なくて、その花水館には一度も泊ったことが無い。もちろんその旅館の人たちも、わたしの当時の体験など夢にも知らないであろう。」 と「あとがき」にはある。
この「花水館」は老舗の立派な旅館で、皇族はじめ昭和天皇も宿泊されている。
しかし、現在はホテル聚楽に引き取られ、旧花水館の「奥の間、茶室坐忘庵」等の書院造りの建物が残されているにすぎない。