東京府郷土史談 全
明治二十六年十二月二十八日 文部省檢定濟
岡本竹二郎 編輯 『東京府郷土史談』 東京 廣岡 蔵梓
『東京府郷土史談』
凡例
一 本書は江戸の地名の始めて史乘に見れたる時より筆を起し、土地管轄者の交迭、事物の發達、風俗の梗慨等を略述す、
一 郷土に關する史談は、歴史の初歩たり、故に務めて簡明を旨とし、微細なる事項を拾掇せず、
一 書中備考となせる事項は必しも兒童に課せんとするの趣意に非ず、特に教授者の参考に供せんとするに在り、然れども、兒童腦力の程度を測り、之を課するは固より妨げなし、一 巻末には、江戸築城以後の號表を附し、以て年代を明にせり、
明治二十五年十月 編者 識
東京府郷土史談
江戸城及び市街の沿革
東京は、元江戸郷と稱し、関東の中央なる武藏野の東端なり、平氏の盛なる時、豪族江戸太郎重長と云ふもの此地を領せり、重長の父を重綱と曰ひ、始めて江戸太郎と稱す、秩父別當重弘の子にして武藏七黨の一なり、
(参考)重長の父は重継、祖父が重綱。
[備考]江戸は江所の義なり、大江に臨めるに因り此名を得たりと云ふ、往古武藏野と稱するは、南は多摩川、北は荒川に接し、東は隅田川、西は秩父山に接し、多摩(タマ)、橘樹(タチバナ)、都筑(ツヅキ)、荏原(エバラ)、豊島(トシマ)、足立(アダチ)、新座(ニヒザ)、高麗(コマ)、比企(トキ)、入間(イルマ)等の諸郡の亙れる荒原平野を云ふ、
源頼朝天下を定むるに及び、家人平賀義信を以て武藏守護となす、而して江戸の地其管轄に屬せり、
[備考]頼朝兵を擧げし時、重長之に屬す、然れども其後の事蹟傳らす、
足利氏興るに及び、族基氏をして鎌倉に據り関東を管領せしむ、成氏に至り執事兩上杉氏武藏を分領し、江戸の地上杉定正の管する所となす、
定正の臣太田持資武藏の地を相し、千代田、寶田、祝田の三村に城き居る、其工事康正二年に起り、翌長禄元年に終る、之を江戸城と稱す、
[備考]太田持資剃髮して道灌と号し、備中入道と稱す、材能多し、康正元年家を繼ぎ、正五位に叙し、備中守に任ず、持資江戸に城き城中に静勝館を置き、書數千巻を藏め、兵馬の間に在りて就て研究す、尤築城兵馬の法に熟し、傍歌學の奥旨を極む、父道眞と共に主定正を輔け、大に用ひられしが定正後に其威望を忌み、讒言を信じて之を殺せり、
足利氏の衰ふるに及び、北條早雲關東に入り、小田原に居り、子氏綱大永四年を以て江戸城を抜き遠山左衛門尉景政を以て城代となせり、
[備考]北條早雲は本姓名を伊勢長氏曰ふ、文明八年從士六人と共に東行し、今川氏の内訌を定め、一城の主たるを得しが、尋で足利茶々丸を誅し、伊豆を略す、時に兩上杉氏難を構ふること累年なりしかば、早雲其疲弊に乘じ、悉く相模を定めて小田原に居る、氏綱、氏康、氏政、氏直を經て終に亡ぶ、
天正十八年、関白豊臣秀吉北條氏を滅し、関東八國を徳川家康に與へ、江戸城を以て治所となさしめたり、
[備考]徳川家康は、岡崎城主廣忠の子、六歳にして織田氏に質たり、幾もなくして歸り、更に出で、今川氏に質となり、學を義元の叔父僧大原に受く、幼にして器量あり、永禄三年五月、義元桶狭間に戰没せしかば、家康始めて國に歸るを得たり、家康他國に在ること十四年、屢艱難に遇ひしが、後織田氏を助けて朝倉武田兩氏を滅し、信長弑せられ、秀吉天下の權を執るに及び、又之を助けて北條氏を小田原に攻む、北條氏亡びて関東を領す、秀吉薨じて後征夷大將軍に任じ、終に徳川の天下を大成せり、
同年八月一日、家康江戸城に入りしが、當時争亂の餘にして、殿宇墻壁大に破損し、檐には蛛の巣を懸けたり、而して又郭外の地、東は蘆葦叢生して海水浸入し、西南も亦卑濕の原野にして、遠く武藏野に連れり、
家康乃地勢に因りて士民を區處し、西北は大番士に賜ひ、髙低を均くして草舎を設けしめ、東南は溝渠を通じ、水を排し泥を浚ひ、橋梁を架し市街を起し、運漕に便にせり、
豊臣秀吉薨じ、天下を一統するに及び、數々諸侯に命じて、城郭を修治せしめ、日本の富を以一城の修築に専にせしかば、面目忽ち一新せり、
慶長九年、藤堂高虎議を唱へ、諸侯をして邸第及び妻子を江戸に置かしむ、同十七年六月、郭外卑濕の地を闢きて市街となし、京師、大阪界府の豪商を徒せり、
是に於て漸く繁盛に趨きしが、明暦二年に大火あり、全市大半焼失し、積年の繁榮を滅却したれども、時の執政官見る所頗る髙く、舊来の市街邸宅を改正し、池沼入江等を埋めて、之を市街となし、又地形を改めて縦横に通ぜる道路を開き、且又諸侯は皆豫め火災を避けんが為めに、別邸を遠地に構へしめ、寺院は之を市外に移したるを以て、市中の幅員は益々廣濶となり、後數年ならずして、北は阪本町、南は髙輪、東は今戸に至る迠市街となり、元禄年間に至りては隅田川を踰えて本所、深川に至るまで人家漸く稠く、市中の區域大に定りたり、
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