夏目漱石 朝日新聞入社
夏目漱石が東京朝日新聞入社へ入社したのは明治40年4月、年40歳であった。
明治40年5月3日に朝日新聞「入社の辭」を発表し、明治40年6月23日の東京、大阪朝日新聞には「虞美人草 漱石 」の第一回目が掲載されている。
夏目漱石がそれまで講義していた東京帝国大学と第一高等学校を辞めて、東京朝日新聞に入社を決意させたのは池邊三山の訪問によると云われている。
漱石は「池邊君の史論に就いて」の中で次のように書いている。
去年の秋、池邊君の「大久保利通論」が中央公論に出たとき、余はそれを秋期附録中の最も興味ある一篇として、楽しく通讀した。其頃余は痔の病に悩んでゐた。池邊君は又年來坐つてゐた東京朝日新聞主筆の地位を棄てた。彼は半ば病床を見舞ふため、半ば彼の地位の變動が余に及ぼし得べき影響について掛念するため、好意上必要上平生よりは屡余の家を訪れた。(中略)
余が朝日新聞に入社の際、仲に立つものが漸次往復の勞を重ねた末、ほヾ相談が纏まりかけた機を見て、池邊君は先を越して向うから余の家を訪問した。其時余は本郷の西片町に住んでゐた。余は其二階に彼を案内した。(中略)余は自分の前にゐる彼と西郷隆盛とを連想し始めた。(中略)彼が歸つた後で、すぐ中間に立つて余を「朝日」へ周旋する者に手紙を出した。其文句は固より今覺えてゐる筈がないが、意味をいふと、是迄話しが着々進行して略纏まる段になつたにはなつたが、何だか不安心な所が何處かに殘つてゐた。然るに今日始めて池邊君に會つたら其不安心が全く消えた。西郷隆盛に會つたやうな心持がする。──ざつと斯んなものであつた。池邊君が余の事を終始念頭に置いて、余の地位のために進退を賭する覺悟でゐたといふ話はつい此間池邊君と關係の深いある人の口と通して余に傳へられたから、初對面の時彼の人格に就いて余の胸に映じた此畫像は全くの幻影ではなかつたのであある。
(漱石全集第十四巻455~459頁「池邊君の史論に就いて」より)
この漱石の「朝日新聞入社」のことは夏目鏡子夫人述「漱石の思ひ出」にも書かれている。
二九 朝日入社
この年の三月初め・・・・大學の大塚博士から、英文学の講座を擔任して教授になってはどうかといふお話がありました。(中略)迷つてゐたところへ、折よく『朝日新聞社』の方から、うちの新聞へ入つて小説を書く氣はないかといふ話を持ち込まれたのです。(中略)こヽは謂はば一生の道の岐れ目なのですから、夏目も大事を取つて慎重に考へたやうです。(中略)いろいろ考へた揚句、ともかく大學で教はつて識つてるからとあつて使者に立つて來られた今の能樂批評の阪本雪鳥さん、其頃の白仁三郎さんに自分の希望を腹藏なく申上げて、『朝日』の方へ傳へて貰たつたやうです。主筆が池邊三山居士で、夏目は池邊さんを非常に信頼して居りましたので、二三度話をした後はともかく入社の決心をしたやうでありました。
(「漱石の思ひ出」209~210頁より)
その後、明治40年(1907)5月3日付けの東京朝日新聞に夏目漱石は「入社の辞」を発表している。
漱石が東京朝日新聞社に入社したと云っても、毎日出社し勤務していた訳ではなく、自宅書斎で小説を執筆し、その原稿を朝日新聞社の者が取りに来ていたので、殆ど朝日新聞社には顔を出さなかった。
僅かに週1回、編集幹部会に出席していたのみである。
既に明治38年(38歳)で「ホトトギス」に「吾輩は猫である」を掲載し、同年「倫敦塔」、
「幻影の盾」、「琴のそら音」、「一夜」、「薤露行」、明治39年(39歳)には「趣味の遺伝」、「坊っちやん」、「草枕」、「二百十日」、明治40年(40歳)1月には「野分」を発表し、作家としての地位は不動のものがあった。
朝日新聞入社の後、「文学論」、「虞美人草」、「坑夫」、「創作家の態度」、「文鳥」、「夢十夜」、「三四郎」、「永日小品」、「文学評論」、「それから」、「満韓ところ」、「門」、「思い出す事など」、「彼岸過迄」、「三山居士」、「行人」、「心 先生の遺書(こゝろ)」、「道草」、「明暗(未完)」など執筆発表してゆき、日本を代表する文豪の一人となったのである。
住居はロンドンから帰国後、明治36年に東京市本郷区千駄木に住み、明治39年末に本郷区駒込西片町に転居し、明治40年には早稲田南町へ転居することになる。
この早稲田南町7が漱石の住んだ「漱石山房」と呼ばれ処である。
又、最後まで小説を執筆し続けた漱石終焉の地である。
今は漱石公園の中に「漱石山房記念館」が建っている。
「漱石山房記念館」
尚、漱石書斎の写真は「漱石全集」第十四巻・評論雑篇(昭和4年2月5日・漱石全集刊行會:発行)の口絵写真より転載したものである。(所蔵の書籍から・多少修正有り NatumeSoseki文字入り)