夏目漱石と土井晩翠 ①
「漱石の思い出」十六『白紙の報告書』(123~128頁より)
『白紙の報告書』 (夏目鏡子述)
夏目がロンドンの氣候の悪いせいか、何だか妙にあたまが惡くて、此分だと一生このあたまは使へないやうになるのぢやないかなどヽ大變悲觀したことをいつて來たのは、たしか歸へる年の春ではなかつたかと思つて居ります。私は呑氣にそれを別に重大に考へるでもなく、深くも氣にとめてなかつたのですが、本人がさういつてこぼして來る位だから、側に居た人が變に思つたのは無理のないことでしたでせう。夏目は發狂したといふ専らの噂が日本にも傳はつて居たのださうですが、私は一向そんなことを知らずに居りました。事のおこりはかういふだつたと後から聞かされました。
何でも留學生の義務として、文部省へ毎年一回づヽか、研究報告をしなければならないのださうですが、夏目は馬鹿正直に、一生懸命で勉強はしてゐるものヽ研究といふものにはまだ目鼻がつかない。だから報告しろつたつて報告するものがない。しかも文部省からは報告を迫つて來る。そこで益々意地になつたのか、白紙の報告書を送つたとかいふことです。文部省でも變だと思つてるところへ、丁度同じ英文學の研究で彼方へ行つてゐられた或る人が、落ち合つて樣子を見てゐるとたヾ事でない。宿の主婦にきけば毎日毎日幾日でも部屋に閉ぢこもつたなりで、まつ暗の中で、悲觀して泣いてゐるといふ始末。これは大變だ、てつきり發狂したものに違ひない。かういふので、いつ自殺でも仕兼ねまじいものでないとあつて、五日ばかりも其方が側についてゐて下すつたさうですが、經過は依然たるもので、見れば見る程益々怪しい。その事がいつか文部省の方へ電報でいつたのか手紙で行つたのか、夏目がロンドンで發狂したといふことがわかつてゐたさうです。そんなわけで一高あたりに居られたお友達や、それからどうして知つてゐたのか、妹の時子や鈴木なども知つてゐたのださうですが、鈴木などはともかく噂であつて見れば、本當かもわからないが、又うそかもわからない。歸へつて來て見ればわかるのだから、其時になつて臨機の所置をとつたらいいのだから、今から話をして家のものを心配させるにも當るまいとあつて、誰も私には聞かせずに置いたものださうです。
(後述略)
上記は夏目鏡子述・松岡譲筆録の「漱石の思い出」の一文である。
松岡譲(夏目漱石の娘婿)は漱石十三回忌の前年、夏目漱石の妻である夏目鏡子の「家庭に於ける漱石」、「妻の見たる漱石」の話を筆録し雑誌「改造」に載せた。
この雑誌「改造」に載せた夏目鏡子の話(筆録)に第六十二章解剖以後の部分を追加して、単行本として昭和3年11月23日改造社より出版したのがこの「漱石の思い出」である。
漱石を知る者にとっては、大変興味深く、面白い本である。
実は茲にこの「漱石の思い出」十六『白紙の報告書』を載せたのは、土井晩翠がロンドン留學中の夏目漱石を下宿先に訪れたとき、酷い神経衰弱に陥っている先輩漱石を手篤く介護したにも拘わらず、漱石の死後、雑誌「改造」正月号に載った夏目鏡子夫人の話で、土井晩翠が夏目漱石に疑われていたことが書かれているからである。
つまり英文学を研究している誰かが「ロンドンで夏目漱石が発狂した」と日本の文部省に報告したと書かれている。
実名は書かれていないが前後の文脈から、土井晩翠は自分のことだと判断したのである。
この事に反発した土井晩翠は1928年「中央公論」二月號で「漱石さんのロンドンにおけるエピソード ──夏目夫人にまゐらす── 」と題し、「夏目夫人、――『改造』の正月號を讀んで私が此一文を書かずには居れぬ理由は自然に明かになると思ひます、どうぞ終まで虚心坦懐に御読み下さい。・・・・・・」と自分は無実だと反論した。
今、私はこの当時の雑誌「改造」正月号も「中央公論」二月號も見ることが出来ないので、昭和3年出版の「漱石の思い出」と昭和9年出版の土井晩翠著「雨の降る日は天氣が悪い」とを参考に「夏目漱石と土井晩翠」を書くことにした。