荒城の月 土井晩翠
春高樓の花の宴 めぐる盃影さして
千代の松が枝わけいでし むかしの光今何處
秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数みせて
植うるつるぎに照りそひし 昔のひかりいまいづこ
今荒城の夜半の月 変らぬ光たがためぞ
垣に残るは唯かづら 松に歌ふはたヾ嵐
天上影はかはらねど 栄枯は移る世の姿
うつさんとてか今もなほ ああ荒城の夜半の月
尚、上掲載画像は會津鶴ヶ城趾の荒城の月誌碑拓本である。
発行所は「財団法人 白虎隊記念館」(會津若松市飯盛山)となっている。
この拓本の説明書には次の様に書かれている。
第二高等学校生徒時代鶴ヶ城を訪ひ来て脳裡に深く印象を残した。
其後鶴ヶ城及び仙台青葉城等を詩材として荒城の月の歌詞成り、短命の天才瀧廉太郎君の名曲を得てよりこのかた五十年に近い。
第二世界大戰修了後二年全会津の有志諸君によりて鶴ヶ城趾内に此碑建立される。
往時を忍び現代を眺めて感慨無量である。
昭和二十二年六月五日 土井晩翠
(右は会津鶴ヶ城荒城の月詩碑の裏面に刻されたものであります)
(この由来記並に詩碑の下書は白虎隊記念館に陳列されています)
【土井晩翠 どい ばんすい】
1871年12月5日(旧暦:明治4年10月23日)~ 1952年(昭和27年)10月19日
仙台の裕福な質屋に生まれる。
本名は土井林吉(姓の「つちい」は後に「どい」と変える。)
晩翠は、1898年(明治31年)に東京音楽学校(現・東京芸術大学)から中学唱歌用の歌詞を委嘱され、「荒城の月」を作詩。同校がこの詩につける曲を公募し、瀧廉太郎の曲が採用され、1901年(明治34年)に発表、『中学唱歌集』に収められた。
1894年(明治27年)に帝国大学英文科に入る。
1900年に母校である(旧制)第二高等学校教授となり帰郷。
翌年に第二詩集『暁鐘』を発表し、二高を辞任してヨーロッパに遊学。
1904年に帰国し、翌年に(旧制)第二高等学校に復職、同校校歌を作詞した。
外の学校の校歌も作詞し、90校以上もの作詞校歌がある。
詩人として有名だが、英文学者でもある。