あゝ野麦峠・劇団民藝公演
昭和四十五年(1970年)一月十日新宿紀伊国屋ホールを皮切りに、満一ヶ年間全国公演。
脚本大橋喜一、演出宇野重吉、早川昭二、出演者日色ともゑ、鈴木瑞穂、下条正巳、佐々木すみ江、草間靖子等、各地で好評、入場者も民芸の久しぶりの快記録をつくった。
(「新版あゝ野麦峠-ある製糸工女哀史-」396頁より)
「あゝ野麦峠」について────宇野重吉
「あゝ野麦峠」の劇化を私に勧めてくれたのは阿木翁助氏である。
一昨年の秋も終りの頃だったと思う。
山本茂実氏の著書にはさんで「この本を書いた山本というのは自分の同郷の友人である。いい本だと思うが、民藝で芝居にならんだろうか。とも角読んでみてくれ」という意味の手紙をくれた。
私は、早速読んだ。
読んですぐ大体の芝居の構想を持った。
劇団の人たちにも一読を勧め、旅公演の間にも「野麦峠」を話題にしていた。
昨年の春、大橋喜一君に劇化の考えを話し、準備を依頼した。
大橋君も、進行中の彼の作品を一時延期して、「野麦峠」にかかってくれることになった。
私は、大体の私の考えを大橋君に伝えただけで、すべてを彼の筆に期待した。
70年の劇団スケジュールを決定するに当り、そのような経過から演出に私も参劃することになったが、舞台の出来はほとんど早川昭二君の力によるものである。
早川君は信州の出身でもあり、大変な熱の入れ方で準備にかかり、大橋君の初稿改訂にも連日徹夜で協力した。
私は合同公演「海暗」とかけ持ちということもあって、彼ら二人の仕事のはかどりようを、ただ横から見ていたというだけである。
脚本の仕上げに大分手間どったが、若い女優陣は早くから手ぐすねひいて配役を待っていたようである。
稽古場もそのような活気に溢れていた。
私は安心して誰それからの相談にのるだけでよかった。(中略)
この私たちの「「あゝ野麦峠」は、これから一年間、日本中を廻ることになる。
健闘してくれるようにと願っている。
(民藝の仲間121号、13頁より)
「あゝ野麦峠」上演によせて────山本茂実
(前述略)・・・・・とにかく五年がかりで出版されて意外に多くの支持を得、今度劇団民藝が一年間長期公演して下さるという話を聞いて喜んでいるが、しかし喜んでばかりいられない。
というのは、この野麦峠の悲しさは私が訪ねた数百人のおばあさんのうち、約半数がすでにこの世の人でないばかりか、きょうも誰か亡くなっているかも知れないということである。 (中略)
「いつ本を書いてくらっしぇ、野麦峠を書いてくらしぇ」
「あんたさんもためらっていきんさいよ」
───そういった飛騨のばあさまたちはもういない。
幾つかの山を越えて私が再び訪ねたばあさまはすでにモーロクして何を話しているのかさっぱりわからない人も幾人かいた。
またある老婆は先日話したばかりでまだまだ元気なばあさまなのに次に行ったらもう亡くなっていた。
そんなわけで野麦峠の取材は私にとっては何とももの悲しい旅路であった。
それに私の母もあれ程野麦峠の完成を待っていたのに本が出た時には死の床にあり、わが子の識別もつかなかった。
今、劇団民藝によって劇化されるよろこびは、私にとってはそういう時点に立ってのよろこびだということである。
しかし「あゝ野麦峠」は出版されても、実際に本を読めない多くのばあさまたちにとって、この直接視覚に訴える劇化は、飛騨のばあさまたちにとってこの上もない贈り物となるであろう。
これで私もやっと少しは荷も軽くなったような気がする。
(民藝の仲間121号、6~7頁より)
1970年
「あゝ野麦峠」劇団民藝
原作=山本茂実 劇化=大橋喜一 演出=宇野重吉・早川昭二
第一部「明治から大正へ」───丸光組製糸場───
第二部「大正から昭和へ」───山八組製糸場───
男・・・・・・・・・・山田昭一・三浦 威
女・・・・・・・・・・日色ともゑ
鬼ばあさ・・・・・・・佐々木すみ江
政次郎・・・・・・・・草薙幸二郎
大将・地主・・・・・・内藤安彦
監督・大将・・・・・・大滝秀治
その他、劇団員。