野麦峠・吉永小百合
山本茂美著「新版 あゝ野麦峠-ある製糸工女哀史-」395頁には次のように書かれている。
●吉永小百合の映画化のこと
(昭和)四十四年三月十三日、吉永小百合は永田町ヒルトンホテルで記者会見し、芸能生活十年を記念して「映画、野麦峠を自主製作」と宣言。
「原作:山本茂美、監督:内田吐夢、脚本:八木保太郎、製作:宇野重吉」と発表し、マスコミは「一億円の私財を投じて野麦峠の女工哀話を自主製作」とはなやかに報道したが、実はそれまでに到る原作争奪のきびしいいきさつもあった。
その後、吉永小百合は著者宛の手紙で「原作のイメージを大切に、ぜひともいい作品に──」と書いて来た。
ところが、十月四日ごろから「ずべてを賭けた野麦峠がスタート直前に“待った”一億円の資金にも火がついて、吉永小百合の涙」(週刊明星)、「イメージが合わぬ、脚本スタッフ解散」(日刊スポーツ)、「けわしかった野麦峠、脱皮できぬ叙情女優」(東京新聞)等が報じられ、話題を呼んだ。
黒澤明自殺未遂や日活映画製作中止等とともに、きびしい映画界を改めて見せつけられた一幕であった。・・・・・・・ (以上)
宇野重吉は「民藝の仲間121号・あゝ野麦峠」誌の「『あゝ野麦峠』について」の中13頁で、吉永小百合の映画「野麦峠」について次のように延べている。
「吉永小百合が、この『あゝ野麦峠』を映画にしたいといって来たのは昨年の夏頃だったろうか。
私は彼女の意気に感じ、その後何かと手助けして、彼女の最初の自主製作映画が成功するように努めたが、いろんな事情から延期ということになった。
小百合君は、シナリオが自分の考えていたものと違う、ということを理由にしているけれど、ずっと進行をはかどって来た私から見れば、これが決定的な問題だとは思えない。
実は、小百合君に製糸工女が赤旗をふり立ててストライキをやるような映画を作らせまいとする圧力が、不思議な筋をたどってかかって来たものとしか考えられないのである。
このことに関しては、何もここで詳しく書くこともないわけだが、この芝居(民藝)を見てくださる方の中に、小百合君の映画『野麦峠』の製作延期について、どうしてかしら、と思われた方もあろうから、ひとことふれておいた。」
昭和44年(1969年)3月、吉永小百合は自身主演の「野麦峠」映画自作製作を発表し、早稲田大学第二文学部卒業した。
その後、野麦峠を訪れ麓の野麦集落の奥原家に宿泊したらしい。
また、野麦峠の政井辰次郎がみねを背負う慰霊碑「あゝ飛騨が見える」の付近に「政井みね之碑」があり裏に吉永小百合と刻銘されている。
映画「野麦峠」を自作製作し、「政井みね」を主演する予定だった吉永小百合は、映画製作を夢みて自ら野麦峠を越え、さらに主演する「故政井みね」の供養碑を建てたものと思う。
昭和44年10月、吉永小百合が歌った「野麦峠」がビクターレコードより発売された。
「野麦峠」 歌・吉永小百合
曾我部博士・作詞作曲 川口真・編曲
ビクターオーケストラ
(ナレーション)
「野麦峠、飛騨の山なみの中でもひときわ高い乗鞍岳と御岳の深い山あいを縫う、けわしい峠路。
明治から大正にかけて昔の飛騨の女子衆は、みんなこの峠を越えて糸ひきに行きました。」
(歌・一番)
野麦 野麦峠 越えて
あねさどこ行く あねさ
あねさ 糸ひきさ
あねさ信州のきかやで
糸ひき一年 はたらいて
いとしいかかさの 顔みたや
とんと とんと えーえ えーえ
顔みたや
(ナレーション)
「『辛抱せにゃだちかんよ』かかさまの声がまだ耳に残っています。
寒さと飢えと恐ろしさで泣き泣き歩く、ほんの十二、三のちいさな糸ひきさもいました。雪に足を滑らせて目もくらむような谷底に落ちていった糸ひきもいます。
女子衆は皆の帯を解いて何本も結びあわせ、助け綱にしてやっと助けあげました。
でも、どうにも助からなかった糸ひきさもいます。
だんだん細くなっていく泣声がいつまでも野麦峠の山あいに響いていきました。」
(このあと、歌二番、三番と続くが省略)