野麦峠・渡辺晄司 絵

野麦峠・渡辺晄司 絵
野麦峠・渡辺晄司 絵
野麦峠・渡辺晄司 絵
野麦峠・渡辺晄司 絵

 

野麦峠・渡辺晄司 絵

 

野麦峠

 山本茂美・文

 渡辺晄司・絵

 1986年7月10日 第 1 刷 (株)草土文化(そうどぶんか)発行

 

この絵本「野麦峠」は山本茂美の文で、元糸ひき工女だったお婆さんが、その工女時代を回想したお話である。

山本茂美は『あゝ野麦峠-ある製糸工女哀史-』(朝日新聞社刊)の著者である。

 

この絵本「野麦峠」は「野麦峠をこえて・佐藤忠良・絵」と話の文章は同じなのだが、絵(渡辺晄司・絵)が違うことで、物語の受ける印象が違ってくる。

二つの絵本は、山本茂美のまったく同じ文章なので、両方の絵本を見比べて見ると、絵本は絵がいかに大事であるか、さらに絵が物語りにも大きく影響することを改めて思い知らされる。

 

「野麦峠」のこの絵本も、佐藤忠良が描いた絵本も、映画も、「政井みね」が野麦峠で亡くなったところで終わっているが、この話に実はちょっとした続きがある。

 

山本茂美著「あゝ野麦峠-ある製糸工女哀史-」25~26頁には次のように書かれている。

 

「(村医者の日記には)『十一月二十日・西の風強く砂を飛ばす甚だし、夕方止む』と記されている。

しかし、辰次郎は宿で『死人を泊めてくれては困る』と断わられ、夜中にみねの亡骸(なきがら)をしょい出し、深夜の峠道を提灯をさげてとぼとぼと下っていった。

昼は農家の納屋に仏(ほとけ)を寝かせて、妹の顔に白粉(おしろい)を塗ってその上を手拭いでほおかぶりさせ、夜道で寂しくなれば辰次郎は仏のみねと話をし、念仏を唱えて歩いた。

美女峠まで来たら高山の商人(あきんど)が気の毒がって車をあけてくれ、それでやっと九日目に角川にたどりついたという。

河合村専勝寺の過去帳は『釈尼妙美、明治四十二年十一月二十日往生、角川、政井友二郎娘ミネ二十歳』と記されている。

これが岡谷で『百円工女』と騒がれた飛騨の糸ひきの最期であった」

 

(参考) 

★この本(絵本)を書いた人

山本茂美(やまもとしげみ)

1917年長野県松本市に生まれる。

早稲田大学哲学科に学ぶ。

人生雑誌「葦」「小説葦」、総合雑誌「潮」などを創刊。各編集長をつとめた。

おもな著書には『あゝ野麦峠』『続あゝ野麦峠』『喜作新道』『高山祭』(いずれも朝日文庫)がある。

 

★この本(絵本)の絵を描いた人

渡辺晄司(わたなべこうじ)

1932年群馬県渋川市に生まれる。

東京芸術大学日本画科卒業。

日本美術会会員。会の事務局長、附属美術研究所長を歴任。日本アンデバンダン展、個展を中心に創作発表。

絵本に「くりまのまつりのはじまり」(小学館)、「トラックよ、はしれ」(新日本出版社)がある。