野麦峠をこえて・佐藤忠良 絵
文・山本茂実
絵・佐藤忠良
ポプラ社の創作絵本4
昭和48年(1973)10月30日第1冊 ポプラ社:発行
この「野麦峠をこえて」は山本茂実 著の「あゝ野麦峠-ある製糸工女哀史-」の著書を絵本にしたもの。
この絵本「野麦峠をこえて」は
『飛騨(ひだ)と 信濃(しなの)の くにざかいに、野麦峠(のむぎとうげ)という ふるい 峠(とうげ)みちが ございます。
むかしは だいじな みちでしたが、いまでは 土地のひとにさえ わすれられた、さびしい みちで ございます。
この くまざさに おおわれた 野麦峠を、おびいただしい 飛騨の 糸ひきの むれが、わたりどりのように こえて いったのは、この ばばが、まだ ほんに ちいさな 子どものころの ことでございます。・・・・・・・』
と、書き出している。
お婆さんが子供に語りかけているようなお話である。
山本茂実の著作「あゝ野麦峠-ある製糸工女哀史-」は1968年(昭和43年)に朝日新聞社より発行され、社会的大反響を呼んだ。
さらに、1979年(昭和54年)、「あゝ野麦峠」は新日本映画株式会社より映画化され、主演「政井みね」役を「大竹しのぶ」が演じた。
(尚、映画の配信は東宝株式会社が行った。)
私が今、所有している「野麦峠をこえて」の絵本は、昭和54年1月30日発行の第5刷であるが、その帯に「6月、全国いっせい公開・・・・・ついに映画化!『ああ、飛騨が見える、飛騨が見える。』峠の茶屋で、ミネはしばらく喜んでいましたが・・・・・・。」とある。
ポプラ社はこの「野麦峠をこえて」の絵本を出す前年、昭和47年(1972)9月に「千本のえんとつ」を出版している。
この本も佐藤忠良が絵を担当している。
「千本のえんとつ」も山本茂実の著作「あゝ野麦峠」に感銘を受けた真鍋和子が、諏訪の岡谷で「製糸工女の哀史」に取り組んだ作品である。
山本茂実は「野麦峠をこえて」の絵本の最後に「この絵本のおわりに」と題して書いている。
「この絵本のおわりに」
「最近私が朝日新聞社から出した『あゝ野麦峠』という本は、実は私が七、八歳のころに、家の婆様(ばあさま)がよく話してくれた昔話でした。
もちろんそれは単純なもので、聞いている時は別にそれほど感動したというわけでもなく、『フーンそんなことがあったのか』くらいで終わっていた話です。
それが何年かたってから、ふとしたことで思い出して、たちまち真夏の入道雲のように、むくむくともり上がり、私をとらえてはなさなかったのです。
その後出した「喜作新道(きさくしんどう)」という本も、近所に住んでいた山好きなおじから聞いた話を、何十年もあたためていて、やっと結晶したものでした。
今にして考えてみると、私にとっては大げさにいえば〈生涯のテーマ〉ともいえる〈種(たね)〉を、あんな幼いころにすでに蒔(ま)きつけてくれた、これらの諸先輩に対して、私はどれだけ感謝したらいいかわかりません。
私は今、小学生の子ども二人をもつ父親ですが、今ある焦燥感をもっています。
というのは、私が婆様からいろいろ話を聞いたのは、ちょうど今の私の子の年齢だからです。
私はこの子どもたちに、生涯の糧になるような種として、いったい何を蒔いてやれるのか?といういらだちです。
子どもたちは今、毎日電気紙芝居(テレビ)と雑誌で、マンガと猛獣のドラマに夢中になっています。
おそらくその数はおびただしいものでしょう。
こういう中から将来いったい何が生まれるのか、そらおそろしくなります。
ババヌキの核家族には、私に野麦峠の話をしてくれたような婆様(ばあさま)はもういません。
すべてがソツなく合理的に処理される不合理。教育に関心過剰の無関心。過保護という放任放縦。ドラマ過剰の殺伐な悲劇のように私には見えます。
私のこういう焦燥の一端がこの絵本への関心をたかめました。
もちろん天下国家のためでなく、それはまことにささやかな、わが家の子ども二人のために、何とかあの婆様の代用品にしたいと思うからです。」