おかあさんの赤いくつ・佐藤忠良 絵
「おかあさんの赤いくつ」
高井節子 作
佐藤忠良 絵
1970年12月20日発行 株式会社 ポプラ社
お母さんの宝物「赤い靴」には悲しい物語があることを娘・エリコは知った。
日本が戦争で負けた時、お母さんは満州チーリンの日本人小学校の四年生だった。
お母さんの名前は「由起」。
由起はお父さん、お母さん、姉の道子と四人で暮らしていた。
昨日まで威張っていた日本人は中国人から「東洋鬼(トンヤンタイ)」と罵倒される。
機関銃を背負ったソビエト兵は日本兵の捕虜を引き連れて町を歩いていた。
日本人がいつソビエト兵に襲われても不思議ではなかった。
日本人に見られないように、お母さんと姉は坊主頭にし、由起とお父さんは中国服を着た。
タバコの葉を栽培する仕事をしていたお父さんは市場でタバコの葉を買い、紙で巻いた「青天」と名付けたタバコを作り、それを売って生活するようになる。
原料のタバコの葉を売っていた中国人の「リー」さん、「チュウ」さんと親しくなり、卵を売っている女の子「金襴」とも親しくなる。
「金襴」は困っていたとき、由起のお母さんに親切にされたことを何時も感謝していた。
その「金襴」はその恩返しに卵を五個、由起の家に毎日無料で届けてくれた。
或る日、由起は「金襴」の家に招待され、「金襴」の作った「赤い靴」を貰う。
いつも卵をくれる「金襴」に、お母さんは真珠の指輪を贈った。
日本に帰れる日が近づいた頃、衰弱したお母さんは死を迎える。
日本へ引き揚げる汽車に乗った由紀達三人を「金襴」はいつまでも見送っていた。
由起はその「金襴」から貰った「赤い靴」いつまでも大切に持ち続けている。
それがお母さんの「赤い靴」だった。
作者の「あとがき」には次のように書いてある。
「わたしが満州でくらしたのは、たった二年の短いあいだでした。
そのうちの一年は、勉強なかばで、軍需工場で働いたりしました。
あとの一年は、敗戦の混乱のなかですごしたのです。
いったい、あすは、どうなることか、おとなたちさえどうしてよいかわからなかったのですから、子どもたちには、なおさらのことです。
不安な目で、両親をみつめているほかありませんでした。
でも、子どもたちは、元気にたばこまきをしたり、それを売り歩いたりしていました。
そんななかで、中国人のリーさん、チュウさん、金襴さんと会うことができたのです。
その当時の子どもが、日本にひきあげてきて、母親となり、もうそのころとおなじ年のむすこや、むすめをもつ年齢となりました。
このおはなしは、そのころの子どもの心になって書いてみました。
わたしの体験をもとにしたこのおはなしを、わたしはもう二十年もまえから、書こうとしていましたが、うまく書けないままでおりました。
そんなとき、「トナカイ村」の同人に加えていただき、山本和夫、藤枝両先生のもとで勉強することができたことは、とてもしあわせだったと思います。
・・・・・・・この本の出版にあたって、すばらしい絵をかいてくださいました佐藤忠良先生、ポプラ社のかたがた、それから旧友の高畠恵子さんに心からお礼申し上げます。」 高井節子