比布町・法輪寺開山忌法要
平成28年11月2日、比布町の法輪寺で開山忌法要が営まれた。
本年は三世住職休廣忌(七回忌)、五世住職大祥忌(三回忌)法要と寺族の年忌法要も合わせて厳修された。
五世住職は神龍寺八世住職・松井宏文大和尚で、この法輪寺も兼務していた。
松井宏文大和尚の本務地・剣淵町神龍寺では12月12日に三回忌法要が営まれる予定。
拙僧は法輪寺で功労物故者・永代祠堂供養の導師をさせて戴いた。
この法輪寺の開山は大本山永平寺六十七世北野元峰禅師である。
この北野元峰禅師が書かれた「富不過知足一生不求人」の書軸が法輪寺寺院寮の床の間に掲げられていた。
この「富不過知足一生不求人」は北野元峰禅師のお好きな言葉であったが、ちょっと読みづらく、これをすぐに読み下せる人はあまりいない。
「富不過知足一生不求人」は「富は足ることを知って一生人に求めざるに過ぎず。」と読む。
北野元峰禅師は東京の青松寺住職から大本山永平寺の禅師になられたが、逸話の多い禅師であり、その略伝「永平元峰禪師傳歴」には次のようにある。
「禅師は青松寺住職中、三つの主義を立てて、頑固にも三十二年間の住職中、之を実行せられた。
其の一は住職中一回も檀家へ寄附勧募を申し込まれなかったことである。
是は普通にはなかなか出来ないことであり、法施に対する財施として寄附勧募は決して絶対に忌むべきことではない。
或る場合には大いに勧募せねばならぬ事もあり、勧むる功徳倶に成佛とさえ称して、財施によって本人のみでなく、その勧むる者さえも功徳を受けるという場合もあるのであるから、大いに考えねばならぬことであるが、禅師の場合に於いてはその如何に拘わらずして其の主義を貫かれた。
禅師は其の当時、我が宗立の麻布笄(こうがい)町高等中学林や、時には北日ケ窪町の大学林に、職員の懇請によって生徒に訓誡に行かれたが、その時によく『折角学校を出て、勧化坊主になるなッ』と呵せられた。
又よく人に書して与えられた墨蹟の中で、最も多数を占めて居るのは『富不過知足一生不求人。富は足ることを知って、一生人に求めざるに過ぎず。』というのであった。
如何なる場合でも人に求めることが天性嫌いな禅師は、此の語を以て人に授けて教え、知足の者は地上に臥(ふ)すと雖も安楽なりとすとある佛の遺誡を其の儘に実行せられた。」
「北野元峰禅師は青松寺住職中、三つの主義を立てて、頑固にも三十二年間の住職中、これを実行せられた。
その一は上記の如く、住職中一回も檀家へ寄附を申し込まれなかったこと。
その二は寄附を申し込まないくらいだから、檀家総代を寺に招いて饗応することは一回もなかった。
『全体住職が檀家の者に対して機嫌を取るなどということは間違っている。彼等には法益さへ与えれば、彼等の方から住職に対して尊敬を払うべきものだ。総代だからとて特別に権利を持たせるようなことをすると、色々な弊害を生じてくる前例が沢山ある』との禅師の言い分であった。
その三は禅師自身も一滴の酒も口にされなかったから、非情に厳粛な禁酒家で、地方巡教の説法中にも戒会中、必ず一回は禁酒説法をされ、飲酒の害を説くことその材料至れり尽くせりであるのは有名なもので、日本全国で禁酒宣伝九家の一に数えられたほどである。青松寺住職中三十二年間、門内には一滴も酒を入れることを厳禁実行せられた。」
北野元峰禅師の侍局を永くされていた細川道契師は以上の如く記している。
尚詳しくは「永平寺六十七世 北野元峰禅師」参照のこと。(緑色の文字をクリックして下さい。)