青山俊董老師・大休寺法話
先般、10月27日の大休寺開山忌法要の午後、青山俊董老師の講演法話があった。
青山俊董老師の講演法話の前、廻廊の椅子で待機して戴いた時、「ご壮健で何よりです。」とご挨拶し、数枚写真を撮らせていただきたい旨を申し上げご承諾頂くと、「徒に馬齢を重ねまして。」と云うお言葉が返ってきた。
本年、八十三歳を迎えられ、何処までも謙虚な尼老師である。
今回の講演法話主題は「今ここをどう生きる-人生を円相で考える-」である。
この円相の下に「無始無終圓同大虚、無始無終圓(まどか)なること大虚に同じ」とある。
「円を描くときは、始めが有り、終わりが有るが、一度円を描いてしまえば、円のどの地点をとっても、その地点が始まりであり、終わりである。円を我々の人生に喩えるならば、ここが始まりで、ここが終わりと決まっているわけではない。どこからでも始めることが出来る。過去の総決算の今であり、未来の出発点の今でもある。」と青山俊董老師は法話冒頭に話されていた。
「喫茶喫飯」 の話
これは今回ではなく前回、青山俊董老師が大休寺に来られ法話されたとき、「喫茶喫飯」の話をされた。
曹洞宗の大本山總持寺御開山・瑩山禅師が本師徹通義介禅師と「平常心是道」の問答をし、「逢茶喫茶逢飯喫飯」の語でその悟りを認められた。
「逢茶喫茶逢飯喫飯」とは「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」と読む。
これを略すと「喫茶喫飯」となる。
「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」とは、「お茶を出された時はお茶を戴きなさい、御飯を出されてときは御飯を戴きなさい 」と云うこと。
我々の人生のテーブルに出てくるのはお茶や御飯だけではない。
自分の人生にたとえどんな物が出されようとも、それを黙っていただくしかない。
嬉しいことも楽しいことも、その人生のテーブルに出てくるだろう。
しかし、嬉しいこと楽しいことだけが出てくる訳ではない。
時には、悲しいこと、辛いこと、苦しいことも出てくる。
それが自分に与えられた物事なら、有難く戴くしかない。
自分の人生なのだから。
厭だ、それは戴きたくないと云っても、それを有難くいただくしかないのである。
さらに、「病気」や、「老い」、最後には「死」が出てくる。
自分の人生のテーブルに、どんな物事が出てこようとも、それを有難くいただくことが出来るか。
厭だ、嫌いだと言って、早くその物事から逃れたいと思うか。
何が出てこようとも、それが自分にあたわった物事なら、それを素直に有難くいただくことが出来るか。
その事次第によって、その人の人生が変わる。
そんな青山俊董老師の法話であった。
後日、自坊の或るお通夜があって、拙僧は青山俊董老師の法話で話された、この「喫茶喫飯、茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」の話をした。
それから、四、五日後、見知らぬ男が訪ねてきた。
その男は「先日のお通夜でお話された喫茶喫飯に感銘を受けました。是非詳しく喫茶喫飯の話をお聞きしたい」と云う。
拙僧は、その喫茶喫飯は、実は青山俊董老師の法話で話された事をそのままお伝えしたのであって、私の話ではないと言い訳し、青山俊董老師の書かれた本を紹介してあげた。
たしか、「典座教訓」の本だったと思う。
北海道の寺院僧侶はお通夜では、必ずと言っていいほど、通夜説教をする。
その通夜説教で何気なく話したこの「喫茶喫飯」の話を、真剣に聞いてくれてた人がいたことに、逆に私は感動したのである。