いちごつみ:こどものとも・佐藤忠良 画
「いちごつみ:こどものとも」
「母の友」絵本61
神沢利子 作・佐藤忠良 画
1961年4月1日 発行所:福音館書店
「物語とさしえ」として
「絵本の中で、物語とさしえとの組みあわせが、どんなにたいせつか、またどんな効果をあげるものかを、この絵本の場合にあてはめて考えてみましょう。
この絵本は、まずはじめの部分で、読者の興味をひきつけます。
森の中、それは物語の世界では、何かがでてくることを暗示します。
あんのじょう、女の子が夢中でイチゴをつみながら語りかけている相手は、三郎ではなく何か別のものらしい。
しかも画面にはその相手の姿がみえず、森の風景だけがえがかれています。
頁をめくる。
突然、大きな手がでて、ついでおおきなおおきなクマがのっそりあらわれます。
これが第一のヤマ場で、子どもたちの目をみはらせます。
さあたいへん!とおもっていると、姿にあわずやさしいクマさんで、ほっと安心。
とたんに子どもたちは、このクマに親しみをおぼえます。
ここから物語は第二部へと移り、さっと場面がかわります。
気はやさしくて力持ちのクマは女の子にたのまれると、こわれた家をみるみる建てなおす。
胸のすくような大活躍をします。
そして物語は、読者の気持ちをあらわすように、クマさんにごちそうをし、かわいらしいプレゼントをあげて、やがてクマはうれしそうに、またもとの自然の森の中へ消えていきます。
さしえが、いわゆるかわらしいおもちゃのようなクマであったら、この場合物語の真実味は失われ、いかにもつくりごとのおはなしになり、子どもの気持は物語の世界の中へとけこむことはできません。
絵本は、子どもがみてたのしむものでなく、その中へはいっていってたのしむことのできるものでなくてはなりません。
こしらえものではなく、ほんとうの世界がえがかれていなくてはならないのです。」
とこの絵本には書いてあります。
この物語は「小さい女の子が森に苺を摘みに出かけました。すると後から誰かがやってきます。知り合いの『さぶちゃん』だと思って話かけていました。しかしそれは大きな『熊』だったのです。やさしい女の子は苺を熊に食べさてあげ、風で潰れそうな家を直してほしいと頼みます。熊の背に乗り家へ帰ります。熊は大きな身体で次々と仕事をこなし、瞬く間に家を直してしまいます。お母さんは家で熊にご馳走し、お土産に女の子は帽子を、お母さんはエプロンを熊にあげて、熊は帰って行きました。」と云うお話。