佐藤忠良・三浦綾子像(二)
「座談会=優佳良織を語る」
佐藤忠良(彫刻家)
三浦綾子(作家)
五十嵐広三(元旭川市長)
木内 綾
木内和博
司会 松井恒幸(前旭川郷土博物館長)
この司会を入れて六人の座談会が「優佳良織作品集〈限定版〉」(昭和五十五年五月二十七日 木内綾著 東京美術:発行)の133~144頁に掲載されている。
前回も掲載したが、三浦綾子記念文学館に佐藤忠良作、三浦綾子像2001が展示されている。
私は、佐藤忠良が三浦綾子の像を造った、それも三浦綾子が死去した後に造ったことに、多少の違和感を感じていた。
三浦綾子が佐藤忠良に自身の彫像を生前に頼んでいた訳でもなさそうだし、死後、誰かがこの像の制作を頼んだとしか思えない。
この像の寄贈者は「五十嵐広三」とある。
佐藤忠良は彼自身のモットーとして、知らない人の写真を見てその人の彫像を造ることを嫌っている。
とすれば、何時の日か三浦綾子との接点がなければならない。
(この著名な二人が何所で出遭ったとしても不思議なことではないが。)
三浦綾子は生前、佐藤忠良作の幼き頃の彼の孫「未菜ちゃん」をモデルにした「スイス帽の未菜」1972を所持していたが、必ずしも二人は出合っていたとは限らない。
例えば佐藤忠良は、プロ野球の王選手が記録を達成した時、王選手の像を頼まれて王選手の写真や資料を沢山集めたが、結局イメージが湧かなかったのか、王選手に直接アトリエに二、三回来て貰って、その像を完成させたのである。
色々と調べた結果、昭和五十五年五月二十七日、木内綾著の「優佳良織作品集〈限定版〉」に佐藤忠良(彫刻家)、三浦綾子(作家)、五十嵐広三(元旭川市長)、その他三人の座談会があって、優佳良織工芸館の開館に際し、親しく語り合っていることが分かった。
この時、佐藤忠良が三浦綾子と会話したのが初めてかもしれない。
その後どんな親交がなされたかは分からないにしても、とにかく座談会で、三浦綾子と佐藤忠良とが親しく会話していたことが記録されていた。
佐藤忠良は、この座談会の前から優佳良織工芸館建設のため、木内綾とは何度も会って相談していたし、元旭川市長の五十嵐広三とは、旭川市平和通り買い物公園に佐藤忠良の彫像を展示することで既知であったろうと思う。
2001年(佐藤忠良89歳)「三浦綾子像」制作において、この時(昭和55年1980)、三浦綾子と佐藤忠良と、この像の寄贈者の五十嵐広三が語り合っていたことは大きな意味を持つ。
この出逢いと、この三人の関係が無ければ、「三浦綾子像」の制作は困難であったであろう。
このことが判明しただけで、私は私なりに納得したのである。