西條八十「あの夢この歌-唄の自叙傳より-」
この西條八十著の「あの夢この歌-唄の自叙傳より-」はとても興味深い本である。
西條八十のファン、あるいは古い歌に興味のある人なら、是非読んでほしい本である。
先般書いた「かなりや」(後に「歌を忘れたカナリヤ」と変更された。)や、今でも「ヤクルトスワローズ」の応援歌で歌われている「東京音頭」、さらには古い映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」などの歌誕生の秘話などが、西條八十のその頃の人生と共に綴るられている。
「あの夢この歌-唄の自叙傳より-」
目 次
一、唄を忘れたかなりや
二、大地震の一夜
三、「椿姫」と「マノン・レスコオの唄」
四、「當世銀座節」を書いた頃
五、美少女人野ゆかり
六、東京行進曲
七、ビクター専屬となる
八、「愛して頂戴」と赤城山
九、「女給の歌」と「サムライ・ニッポン」
一〇、談州樓燕枝の母
一一、初めて小唄勝太郎に會ふ
一二、「天國に結ぶ戀」と徳山璉
一三、小林千代子發見
一四、「島の娘」時代
一五、中山晋平氏と「大島おけさ」
一六、コロンビア入社と「サーカスの唄」
一七、民謡の旅
一八、媚めかしき誤解
一九、袋蜘蛛(小唄作者の旅日記)
二〇、「東京音頭」時代
二一、「東京音頭」餘話と巡査小野巡
二二、アメリカへ行くまで
二三、「愛染かつら」
あとがき
「戦争中茨城の小さな町で暮してゐると、近くの工場や、遺家族の慰問などに講演をよく頼まれた。或るとき、あまり固い話をするものどうかと思つて、自分が書いた古い大衆歌のレコードをかけて聴かせ、それに挿んでその歌を書いた當時の想い出などを喋舌つた。ところが意外にもこれがひどく喜ばれて、講演の一時間が二時間になつても聴衆はもつと長くと、せがむ有様だつた。と、偶然その場に居合せた永島一朗君が「それをお暇のときに書いて見ませんか、なんでしたら家内に速記させてもいいですが」と、親切に言つてくれた。それで戦争中鷄の世話をしながら、ボツボツ書き溜めたのが、ここに纏めた原稿である。
わたしはいはゆる正統な詩を書きながら、一方かうした大衆歌謡にも筆を染める両棲的な人間だが、この大衆歌謡の製作といふものには、男子一生をうち籠んで決して惜しくない十分の意義があると認め、信じている。數行の言葉をもつて千人萬人の人を動かし、慰撫し、鼓勵する時花歌の作(はたら)きは、よしそれが純粋な藝術といへない場合でも、政治や宗教や産業などと同じく、ひとつの立派な社会現象であり、人間生活の必須な活力である。この意味で流行歌は選ばれた少數者の鑑賞の供するいはゆる藝術な詩よりもはるかに大きな價値を持つとも言へる。十八歳の少年ホワード・ペインが書いた「ホーム・スヰート・ホーム」の唄が、全英國植民地の人々の懐郷の念を驅り、延いては英國政府の抑壓となり、それがやがて米國獨立の機運をつくつたことを想へ。フランクリンの姿を見てフランス國民が」唄つた「サ・イラ」の俗謡が、フランス大革命の成就をいかに助けたかを想へ。
なほ、心覺えを辿つて綴つたこの「想ひ出の記」中には、時代や事實について多少の思ひ違ひがあるかも知れない。また遠慮なく本名で引ぱり出した名士知友の方々に對し、わたしの誤解があつたり、また思はざる御迷惑をかけたかも知れない。だが、それらは決して悪意あつてのことではないのだから、從來の友誼に免じての御寛容をひたすらにお願ひしておく。
昭和二十二年秋 東京郊外砧にて 著者
昭和二十三年三月二十日 發行
著 者 西條八十
發行所 株式會社 イヴニングスター社
尚、蛇足だが、西條八十作詞の同名の歌がある。
「あの夢この歌」 西條八十:作詞 古賀政男:作曲