かなりや・西條八十 (二)
西條八十の書いたものに「あの夢この歌-唄の自叙傳より-」と云う本がある。
この本は昭和23年3月20日に株式会社イヴニングスター社が発行したもの。
この本の最初に「一、唄を忘れたかなりや」と題した文章が7頁より25頁まである。
「いまでもよく想いだす。茅場町から日本橋までぶらぶら歩いてくる途中に、兜橋という真ん中を都電の通る鉄橋があった。その橋の歩道に立って、昼、川すぢを眺めていると、上流のほうからよく石油が流れてきた。・・・・・」と云う書き出しである。
西條八十は明治25年1月25日、父・十兵衛、母・徳子の三男として生まれた。
早稲田中学に入り三年生のとき、父が亡くなり、西條八十はその家督相続人に任命された。
しかし兄が放蕩して財産を殆ど無くしてしまい、残った土地を売り払い負債を整理したが、母と弟妹を養わなければならなくなった。
残った僅かなお金を元に生活費を得るため、兜町の株取引所へ通っていた。
しかし、大正9年3月15、16日、欧州戦争終了後の株式大暴落を最後に、嚢中わずかに三十円を残して、この兜町と縁を絶ってしまう。
以下 「あの夢この歌-唄の自叙傳より-」 本文より
兜町へあまり足を運ばなくなると、しばらく中絶していた文学への愛情が、はげしくわたしに燃え上ってきた。元来、早大の英文科と東京帝大の国文科専科と双方に籍を置いて、同時に卒業するという変わった予定をたてて勉強していたわたしが、中途にして突然兄の放蕩から、一家没落の悲運に見舞われた。しかも学生の身で、老母と弟妹を抱えている苦しさから、帝大のほうは二年まで進んで断念し、早大は試験だけ受けてどうやら卒業したまま、向こう見ずに兜町通いをはじめたのだが、その焦慮がすこし落ち着くと、もうペンをとらずには居られなくなった。当時、わたしは神田の裏街の出版屋の二階に妻と二人で住んでいた。・・・・・(10~11頁より)
兜町通いをやめて、出版屋の二階で雑誌「英語之日本」の編輯をやりながら、また好きな詩をノオトに書き込んでいるわたしのところへ、或る朝、意外な客が訪れた。
その朝はちょうど店の小僧が出かけたあとで、わたしが代わりにワイシャツにズボンという姿で店頭で注文の書籍の荷造りをしていた。そこへ色の黒い眼のするどい、髭のある小男が和服姿で「西條八十さんは居ますか」といって、小さな名刺を出した。それには鈴木三重吉と書いてあったので、わたしはびっくりした。今では鈴木三重吉の名も小部分の人にしか記憶されていない。だが、当時漱石門下で、所謂ネオロマンティシズムの構想と、独得の粘りのある文体とをもって一世を風靡した小説家三重吉の名を知らない者はほとんど無かった。その有名人が無名の一青年を訪ねてきたのである。
わたしは店頭の椅子に招じて、用向きを尋ねた。「新しい童謡をあなたに書いて頂きたいのです。」こういって三重吉氏は、今度自分が新しい童話童謡の雑誌「赤い鳥」を創刊したことから、童謡についての概念など熱心に説明された。わたしが、「とにかく書いてみましょう」と、答えると、満足して帰って行かれた。突然この著名な作家の訪問をうけて、先輩の三木露風氏や北原白秋氏と同格で童謡の寄稿を頼まれたことはうれしかったが、どうして鈴木氏が無名のわたしにそれを頼みに来られたかが不思議でならなかった。実は鈴木氏との対談中にも、わたしはそれを何度も訊こうとして、口もとまで言葉出かけていたのだが、なぜかつい遠慮してしまったのだった。・・・・・(11~13頁より)
雑誌「赤い鳥」のために、わたしはまづ「薔薇」という童謡を書き、次に、あのひろく唱われた「かなりや」を書いた。「かなりや」の歌詞のモーチィフは、幼い日誰かに伴(つ)れられて行った、たしか麹町の或る教会だったとおもう、そこのクリスマスの夜の光景(けしき)の回想から生まれた。年に一度の聖夜の夜、その会堂内の電灯はのこらず花やかに灯(とも)されていたが、その中(うち)にただ一個、ちょうどわたしの頭の真うえに在るのだけが、どういう故障か、ぽつんと消えていた。それが幼いわたしに、百禽(ももどり)がそろって楽しげに囀(さえず)っている中に、ただ一羽だけ囀ることを忘れた小鳥、――「唄を忘れたかなりや」のような印象を起させて哀れに想えた。その遠い回想から偶然筆を起こしてこの童謡を書き進めるうちに、わたしはいつか自分自身がその「唄を忘れたかなりや」であるような感じがしみじみとしてきた。そうではないか? 詩人たろうと志して入学した大学の文学研究も、わたしは不幸な出来事から放棄した。そうして、何よりもまづ老母や弟妹の生活を確立するために、兜町通いをしたり、図書出版に従事したりしている。わたしはまさに歌を忘れたかなりやである。
唄を忘れた金絲雀(かなりや)は
うしろの山に棄(す)てましょか。
いえ、いえ、それはなりませぬ。
唄を忘れた金絲雀(かなりや)は
背戸(せと)の小藪(こやぶ)に埋(う)めましょか。
いえ、いえ、それもなりませぬ。
唄を忘れた金絲雀は
柳の鞭でぶちましょか。
いえ、いえ、それはかわいそう。
唄を忘れた金絲雀は
象牙の船に、銀の櫂(かい)
月夜の海に浮べれば
忘れた唄を想いだす。
わたしは兜町通いの間にも、いくたびもこの歌詞のように自分を責める声を聞いた。本来の使命の詩を書くことを忘れて錙銖(ししゅ)の利に憂き身をやつすようなこの男は、棄ててしまえ、鞭うて、殺してしまえと罵(ののし)る心内の声を。――兜町通いは兄が蕩盡し去った家財のわずかばかりの残余を資本(もと)に、なんとか一家の生活の基礎をつくろうとする苦慮から出たものではあったが、この心内の声を聞くと、わたしはたまらなく恥ずかしい気がした。が、同時に、心の別などこからか、わたしを弁護し労り憫(あわれ)むような声もするのであった。
わたしは幼兒のための童謡を書こうとして、いつかその中に自分の現在の生活の苦悶を滲ませていたのであった。そうして、この謡の末尾の聯(れん)――
唄を忘れた金絲雀は
象牙の船に、銀の櫂
月夜の海に浮べれば
忘れた唄を想いだす。
は、当時わたしの心に夜明けていたかすかな希望であった。この憫(あわれ)むべき、歌を忘れた小鳥も、いつかは運命の手により、象牙の船にのせられて銀の櫂をそえて静かな月夜の海に浮かべさせられるというような適処適材の位置に置かれれば、忘れ去った昔の歌をもう一度想い出し、美しい声で歌うようになるかも知れないという期待であった。 (中略)
後年、――といっても、「かなりや」の謡が作曲発表されてから四、五年後であるが、その頃わたしが英文学の講師として教壇に立ったばかりの一人の学生の頼みで、その郷里の埼玉県の或る小学校へ童謡の講演をしに出かけたことがあった。そのとき、わたしの講演のあとで、可愛い子供たちが揃って「かなりや」の謡を合唱してくれた。それを聴いているうちに、わたしはたまらなく当時のことを想いだした。まったく世間を知らない二十二歳のわたしが、突然多くの家族を抱えて独りぼっちで浮世の荒い風の中に立った時の気持、――今まで軽蔑し切った群集に混じって兜町通いに生活費を獲ようとしたあの不安な気持、――そうした侘しい回想がいきなり胸さきにこみあげてきた。なんともいえぬ感傷的な気持になっていつか涙がポロポロこぼれてきた。ついに歌っている幼童だちの前で、わたしは両手で顔を蔽(おお)ったなり、抑えきれず嗚咽(おえつ)してしまったのだった。
(以上、18頁から22頁より) (尚、以上本文は旧字体、旧仮名遣いを新字体、新仮名遣いに直した。)
後にこの「かなりや」は、唱歌に採用された時に「歌を忘れたカナリヤ」と歌の題名が改められた。