赤とんぼ ・三木露風 (二)
昭和12年4月20日、株式会社日本蓄音器商会より、コロムビアレコードS一二五附録として「日本童謡全集 ①」が発行された。
この「日本童謡全集 その一」には
西條八十作詞 成田爲三作曲
童謡『かなりや』 獨唱 飯田ふさ江
奥山貞吉指揮 伴奏 日本コロムビア管弦楽團
三木露風作詞 山田耕筰作曲
童謡『赤とんぼ』 獨唱 飯田ふさ江
山田耕筰指揮 伴奏 日本コロムビア管弦楽團
と最初の頁にある。
また、後の頁には「舞踊かなりや 振付 藤蔭流家元 藤蔭静枝」と、「舞踊赤とんぼ 振付 大日本體育ダンス研究會長 渋井二夫」とがあり、写真付きで、その舞踊の振付、踊り方が掲載されている。
最後に「かなりや」と「赤とんぼ」の楽譜が載っている。
尚、絵は清水良雄が描いている。
赤とんぼ 三木露風
(1) 夕やけ小やけの あかとんぼ 負はれてみたのは 何時の日か。
(2) 山の畠の 桑の實を 小籠につんだは まぼろしか。
(3) 十五でねえやは 嫁に行き お里のたよりも たえはてた。
(4) 夕やけ小やけの 赤とんぼ とまつてゐるよ 竿のさき。
『赤とんぼ』の歌ひ方 山田耕筰
赤とんぼの曲をおつくりになつた山田先生がその歌ひ方についてこんな有益なお話をして下さいました。レコードをきくといつしよにこのお話を讀んで、そしてこの名曲を正しく歌つて下さい。
夏も過ぎた秋の日。
夕方の西の空は眞赤な夕燒です。可愛い赤とんぼが、入りみだれてスイスイと飛んでゐます。
あれは、私がまだ三ッか四ッぐらゐの子供のときだつたでせう。姐やに負ぶさつて、この赤とんぼの群れ飛んでゐるのを見たのは。
山にある私の家の畑に行つて、小さな籠にいつぱいつめてくれたのも、この姐やでした。私は面白がつて、赤い實をちぎつては籠に詰めこみました。
「坊つちやま、赤いのはだめだすよ。黑いのをおとりなさい。」
なるほど、赤いのは渋くてたべられません。それからは、毎日のやうに姐やにせがんでは、手を紫色にしながら、黑い桑の實をとつて喜んだことをおぼえてゐます。
この姐やは十五でお嫁さんにいきました。お別れのとき、私は「いやだいやだ」と泣きました。姐やも私を抱きしめて、オイオイ泣きました。お嫁さんにいつてからも、たびたび手紙をくれましたが、その後バツタリ便りがありません。
私を可愛がつてくれたあの姐やは、今どうしてゐることやら。
夕燒小燒の夕暮、竿のさきにチヨコナンと一匹とまつてゐる赤とんぼを見るとき、私は私の幼いときのことをおもひだします。
みなさんも同じやうなことがあつたでせう。そのときとおんなじ氣持でこの歌をうたつてください。上手上手に歌はうと思はなくてもいヽのです。
みなさんが、あのとき楽しかつた、悲しかつたと思つたら、それがをそのまヽ歌へばそれが一番立派な歌になるのです。
秋の夕暮れ、西の空の眞赤な夕燒、赤とんぼが飛んでゐるのを、姐やに負はれて見てゐるみなさんが歌ひたいまヽをお歌ひなさい。
それがホントウの歌です。
上記のように、作曲家山田耕筰は、この『赤とんぼ』の歌ひ方で、歌詞の説明をもしている。
この同じ冊子の中で作詞家三木露風が「赤とんぼ」の思ひ出として書いているにも拘わらずに。
多分、作曲するにあたって山田耕作は、この『赤とんぼ』の詞の説明を三木露風から聞いて作曲したのではないかと思う。
その故、詳しくこの「赤とんぼ」の詞の内容を知ったのだろう。
そうでなければ、山田耕筰は「私は私の幼いときのことをおもひだします」と自分の思い出のように書いているが、これは三木露風の「赤とんぼ」の詞であり、作詞した本人と同じ冊子の中で、詞の説明をここまで克明に書く必要はないのではないかと思う。
さらにもし、山田耕筰が三木露風の「赤とんぼ」の歌詞を無視して、本当に自分自身の幼き頃の思い出を書いたならば、この場にはふさわしくないだろうと思う。
「赤とんぼ」の思ひ出 三木露風
私の作つた童謡『赤とんぼ』は、なつかしい心持から書いた。
それは童謡の題材として適當であると思つたので、赤とんぼを選び、さうしてそこに伴ふ思い出を内容にしたのである。
その私の思い出は、實に深いものである。ふりかへつて見て、幼い時の自己をいとほしむといふ氣持であつた。
まことに眞實であり、感情をふくめたものであつた。
思ふに、誰にとつてもなつかしいのは幼い時の思い出であり、また故郷であらう。
幼年の時故郷にゐない者は稀である。
幼年と故郷、それは結合してゐる。
であるから、その頃に見たり聞いたりしたことは懐舊の情をそヽるとともに、また故郷が誰の胸にも浮んでくるのである。
私は多くの思い出を持つてゐる。
『赤とんぼ』は作つた時の氣持と、幼い時にあつたことを童謡に表現したのであつた。
『赤とんぼ』の中に姐やとあるのは、子守娘のことである。
私の子守娘が、私を背に負ふて廣場で遊んでゐた。
その時、私が背の上で見たのが赤とんぼである。
『赤とんぼ』を子供に聞かせる時の私の希望は、言葉に就ての注意である。
さうして各節に就て一々それを説明して聞かせ、全曲の心持ちもわからせるやうにすることである。
これらのことは必要事項で、あとは子供の有する感受性で感得するといふことにしたいのである。
又、三木露風はその著「眞珠島」の「序」の中で「童謡」について次のように述べている。
「私が童謡を作る動機をつくった人は鈴木三重吉氏でした。『赤い鳥』を三重吉氏が出して、全く新しい匂いのする子供のための芸術運動を起こされたとき、その(北原)白秋氏と同じく自分へも童謡を求められたのが初めで、その二号か三号かに「毛虫採り」という一篇を寄せました。なお氏は童謡の作曲の方面にも新生面を開きたい希望があって、誰れか善い作曲家はなかろうかということであったので、当時山田耕作氏は海外にあって居なかったため、近衛秀麿、成田為三の二氏を鈴木氏に紹介しました。童謡運動は、作曲の方面でも、『赤い鳥』が最も早かったようです。
童謡にはやはり自分が表れます。自分が表れなければ善い童謡ではありません。創作態度としては童謡をつくることも自分をうたうことだと思っています。私の作品の中には象徴的なものもありますが、それは難しい言葉でうたってあるのでなく、易しい言葉になっていますから子供でも感得します。童謡に要点が二つあります。その一つが謡(うた)えるものであることで、一つは感得するものであることです。
或いは私は、ただ謡(うた)ばかりではなく、「うたう事のできる表現」を有(も)った童謡も作りました。
大人は、大人自身の中に子供を有(も)っております。誰も懐かしい揺籃時代の追憶を有(も)たない者はありません。故に私は今も決して忘れることのできない幼年時代の想像や感覚やをさながらの言葉にしてうたったものもあり、又は子供のこころもちの経験から現在の自然観照を童謡にしたものもあります。
童謡はすなはち、天真のみづみづしい感覚と想像とを、易しい言葉でうたう詩です。易しい子供の言葉で―― それはほんとうの詩と異(かわ)らないものを易しい子供の言葉で、という意味です。
童謡は詩です。」
(「眞珠島」9~13頁より、旧字体、旧仮名遣いを新に改めた。)
尚、Internet上ではこの「赤とんぼ」の歌に対して「十五で嫁に行く」のは早いとか、「お里のたより」とは誰からのたよりなのか、など諸説紛々である。
少しでも参考になればと思い、ここに原画・原文のまま掲載させて戴いた次第で、「赤とんぼ」の歌は三木露風が生きてきた時代に即応した歌の内容であって、現代の我々では考えられない事も多々あろうかと思う。