続・上川離宮
北海道石狩國上川郡に北の京の北京と上川離宮は実現しなかったが、なぜ実現しなかったのだろうか。
北海道庁の有る札幌の反対が大きかったとも言われている。
尚、現在上川神社に隣接する旭川市神楽岡公園内には旭川市教育委員会が建てた「上川離宮予定地の跡」の碑があるが、その文面に「明治二十八年、道庁云云」とあるのは「明治十五年か、明治十八年か、明治二十二年」の間違い。
多分、明治十八年を二十八年と書き間違えたのだろうと思う。
先般、この北の都北京と上川離宮に反対の意見を述べた法制局長官の言は省略したが、ここで再び“国立公文書館・変貌-江戸から帝都そして首都へ-15.北海道上川郡に「離宮」設置”公開文書から、この意見を見てみることにする。
明治二十二年十二月九日
内閣總理大臣 法制局長官 印
別紙宮内大臣並北海道廳長官建議北海道石狩國上川郡に北京を設定するの件を審桉するに北海道に國都を立て人心の方嚮を導かんとするは将来開拓の事業を振勵する爲めの効益に於て蓋し補ふ所なしとせす
然れとも全國政治上の大計より之を観察するに頗る其宜きを得さる所あり抑も國都なるものは全國統治の首府にして永遠駐輦の所に限るの名なり
故に國都は必や國家内外の事物之に輻湊する所にして之を國土の首脳に比すへし
今夫れ北海道に國都を立てヽ北京の名稱を附せんとの建議は蓋國都たるの体裁施設を備えて土地の繁榮を促すに止まるものなり
然と雖既に北京の名稱を定むるときは帝都たる事實之に随伴せさるへからす
立都の大事をして名實相反する所あらしむるは處置の宜きものに非るなり
且設令國都の体裁結構を備ふるの擧を實施するには草莾未開の地に於て新に土木の業を起し巨大の資金を費さヽるへからす
此の巨大の資金は開拓の事業を助くるに於て果して当初豫期の如くなることを淂つ乎亦疑なきを淂す
國都必しも唯一ならす東京の西京に於る例を推せは北海道に新京を建設するも名義に於て缺る所なきものヽ如しと謂はんか
然るに西京は祖宗歴代の帝都にして大禮及大祭の擧行せらる所なり
故に此特別の制度は容易に他に例推すへからさるなり
右の理由に依り本建議は御採用なき方可然と思考す
以上の理由にて法制局長官井上毅は反対したのである。
しかし時の内閣總理大臣山縣有朋は北京並びに離宮を北海道石狩國上川郡の設置することを決定し、北海道廳長官永山武四郎に通達した。
この政府決定を受けてか、明治23年に北海道上川郡に「神居、旭川、永山」の三村を置き、翌明治24年に永山村に屯田兵400戸の入植を開始した。
明治25年には東旭川、明治26年には当麻にも屯田兵を入植させた。
しかし明治27年8月に清国に宣戦布告し日清戦争に突入する。
明治28年3月には臨時第七師団を編成し兵士を日清戦争へと送った。
明治29年5月、札幌に第七師団が設けられ、永山武四郎が初代師団長となり、屯田兵司令部条例は廃止され、第七師団司令部条例が制定される。
その間、札幌から旭川までの道路は通ってはいたが、明治31年5月25日、空知太(深川)と旭川までの鉄道が開通し、8月21日に上川鉄道開通式が挙行された。札幌と旭川が鉄道で結ばれたのである。(この札幌~旭川間の道路、鉄道の建設は月形の樺戸刑務所の囚人達が出役した。)
明治31年(1898)6月より明治政府は第七師団を札幌から旭川へ移動する。
明治32年4月、旭川連隊区司令部が永山村に置かれ、7月には鷹栖村字近文(現旭川市内)で第七師団の建設工事が始まる。
明治34年4月、第七師団司令部が鷹栖村字近文(旭川市春光町国有無番地)に移され、明治35年4月、旭川連隊区司令部を永山村より第七師団司令部内に移される。
明治37年(1904)2月10日、ロシアに宣戦布告する。(日露戦争)
この日露戦争により、第七師団は司令部をはじめほとんどの師団機能を旭川に集中させ、対ロシア警備の拠点となり、旭川は「軍都」と称されようになる。
やがて旭川駅より第七師団に続く道路は「師団道路」あるいは「師団通り」と呼ばれるようになり、人馬の行き来が多くなると共に、街が徐々に賑わいをみせて、旭川村、旭川町、旭川区、旭川市と変遷して行く。
このように旭川は急速に発展したが、それは北海道の中央に軍事拠点を置くことが急務であり、北京、離宮とは別の次元の話であった。
しかしまだ、上川離宮設置は消えたわけではなく、明治44年、皇太子殿下北海道行啓の折りに、「離宮建設予定地(旧上川郡字ナエオサニ)」を視察されたのである。
だが結局、大正13年「上川神社」が離宮建設予定地に移転建設されたことは、実質的に「上川離宮」建設が無に帰したことだと思う。