夏椿と沙羅双樹
東川寺中庭にある「夏つばき」は先日来より咲いている。
今年の6月は寒かったので、例年より遅い開花となった。
この花は二、三日で、はかなく散ってしまう。
まさに、この花を見ていると「朝に生まれ、夕に死すとも可なり」の言葉通り、生きとしものの儚さを思う。
古来この「夏椿」の木は「沙羅」の異名がある。
「平家物語」の冒頭は有名な『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。』である。
問題はこの「平家物語」の冒頭の「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。」である。
「平家物語」の作者は「諸行無常、盛者必衰」を云わんがために、釈尊と縁がある、「祇園精舎」と「沙羅双樹」とを冒頭に語った。
近年になるまでインドの祇園精舎の跡地には鐘は無かったので、2004年に日本の「日本国祇園精舎の鐘の会」が鐘と鐘楼を寄贈した。現在は鐘が設置してはあるが、釈尊在世当時に、はたして「祇園精舎の鐘」があったかどうかは解らない。
釈尊入滅に関しては色々な説があり、「禪學大辞典」の「鶴林」の項には「釈尊入滅の地、インド拘尸那竭羅の異称。釈尊が沙羅双樹の間に入滅したとき、あたりの樹木の花が急に開き、白色に変じ、鶴が群がりいるようになったのでこの名がおこったとされる。」とある。
しかし本当ところは「沙羅双樹」が釈尊入滅の時、めったに咲かない花が咲き落ちたか、真っ白に変わったか、幹の色が白く変わったかも解らないのである。
当時「平家物語」の作者が、釈尊入滅のインドの沙羅双樹を実際に知っていた訳でもなかろうと思う。
遺教経(仏垂般涅槃略説教誡教)には「釈迦牟尼仏、初めに法輪を転じて、阿若憍陳如を度し、最後の説法に須跋陀羅を度したもう。応に度すべき所の者は、皆已に度し訖って、沙羅双樹の間に於いて、将に涅槃に入りたまわんとす。」とあるのみ。
インドの「沙羅の木」はめったに花が咲かないが、枝の先端で開花すると淡い黄色の小さな花で、芳香を放つと云う。
「平家物語」の作者は日本のこの「沙羅」の異名のある「夏椿」の花を見て、「沙羅双樹の花」としたのではないかと思う。
そうだとすれば、咲いて直ぐに散ってしまう「夏つばきの花」は諸行無常と盛者必衰の理をあらはすのにはふさわしい白い花である。