菩薩戒童蒙談抄
この「菩薩戒童蒙談抄」は寂室堅光が文政二己卯夏五月、江州清凉寺方丈にて菩薩戒を説いたものを筆録し、版を起こし出版されたものである。
菩薩戒童蒙談抄 (寂室堅光・講説)
(一丁)
夫れ菩薩戒は佛々祖々嫡々に面禀口授とて、如來より迦葉尊者。かせう(迦葉)より阿難尊者。あなん(阿難)より商那和修尊者と、手から手に傳へ來るゆゑ、戒法をうけ血脈をいたヾくは誠にこの上もなき有りがたき事なり。
其の戒法とは、すなはち三帰戒、三聚淨戒、十重禁戒、これを禪門の十六條戒といふ。
此の戒法をあらためて受くるといへば、何ぞ六ヶ敷(むつかしき)事にて、俗家にてはなりにくいやうに意得(こころう)は、戒法の譯をしらぬゆゑにしかあるなり。
此の十六條戒は授けずとも、人々(にんにん)持前の戒法ゆゑ、自性戒とも一心戒とも
申すなり。
此の戒法をはづれては人間界の道筋がたヽぬ程の事。
しかれども三世の如來から今日まで授けたり受けたりなされ來られたるゆゑに佛戒となり。
自然(じねん)と功徳が備りて、そのうくるとうけざるとのちがいにて、正道となり邪道となるゆゑ。
佛戒血脈をうけたる人には護戒神とて、三十六の守護の大神将に無数億の眷属の神ありて、その人を守り賜ふと潅頂経(かんちょうぎょう)の中(うち)に説たまへり。
天竺は佛國故(ゆえ)、むかしより國王即位の時、また百官とて臣下の方、諸役に召出され、役付の時はまづ戒法を受くるなり。
此の戒を受けたるものには、仏ぼさつ天龍神祇が、大王の身、百官の身を守
(二丁)
護すと梵網経にときたまふ。
わが本朝にても
御即位の時は叡山の座主を請待(しょうだい)ありて十善戒を受けたまふゆゑ、十善の天子とは申し奉るなり。
御大名、其の外すべて人の上に立つ方々は菩薩心慈悲心がなければ下(しも)が治まらぬなり。
凡そ佛道を修行するには持戒を第一の根本とするなり。
戒を持つときは、おのづから心が清淨になるゆゑ、禅定も智慧も自然とこの内より出づるゆゑ、持戒を礎(いしずえ)となし、禅定を屋宅となして、よく智慧の造作をなすと梵網経にも仰られ、又、遺教経にも、我が涅槃の後はまさに
戒法を尊重とたふとみ、珍敬(ちんきょう)とうやまひ奉るべし。たとへば暗夜(あんや)に松炬(たいまつ)挑燈(ちょうちん)をもつがごとく、又、貧しきものヽ財宝を得るがごとし。此の故に戒法さへあれば末世の大導師といふものにて、如來の世にましますと同じ事なり。此の戒法がなければ世は黒闇(くらやみにして、因果應報の理を知らず。畜生木石に異ならすと説かせ玉ふなり。
有がたい事には過去によろしき善根の種子を蒔きしゆゑ、佛法流布の國に生れ、其の上に如來より嫡々相承の戒法血脈をうくる事は、誠に優曇華よりも希(まれ)なるべし。
しかるを同じ佛法のうちにても、宗旨によりては末世の凡夫は受戒や坐禪などは中々ならぬ事
(三丁)
ゆゑ、かヽる難行よりは易行のをしへについてつとめゆけば、成佛に疑ひなしと、戒法をすてヽ得手勝手の事をヽしゆる人おほし。
凡そ三世十方の如來に、一佛として受戒せずして正覺を取り玉ふほとけなし。
又、在家の方にも授戒しても、もし破戒すれば地獄に堕つるとあれば、なまじひに戒を受けぬが増しぢやと、中には意得(こころえ)違があるゆゑ、その譯を瓔珞経に、受戒すれば菩薩の中に入る。これを受けて犯(ぼん)あるは受けずして犯さヽるに勝れり。犯あれども菩薩と名く犯なけれども外道と名く。菩薩戒は受戒ありて捨法なし。犯あれども失はず。未来際を盡す。(現漢文)
この佛説のこヽろは、ぼさつ戒は小乘戒とちがひ、一念の大信心にてあり
がたい事、うけやうとおもふ心がおこり、受戒すればすなはちぼさつのうちに入て、此の次の生には戒行の勝縁にて、果報めでたく人間天上つねに富貴の家に生れ、また其の次そのつぎと次第に果ほうすぐれて、決定(けつじょう)して必得作佛(ひっとくさぶつ)の期(ご)にいたるなり。
此の戒を受けて後、或は悪敷(あしき)友だちにすヽめられ、あるひは自ら悪心がおこり、種々の罪科(ちみとが)をつくるとも、一度(ひとたび)受戒したるものは懺悔の心がおこる。
さんげすれば、すなはち安樂なりとて、またぼさつ戒の光があらわるヽなり。
大乗菩薩戒は金を以てつくる器のいくたびも仕替(しかえ)の出来るが如く、破戒しても懺悔すれば、またもとにかへるなり。小乘戒は
(四丁)
陶物(すえもの)のごとしとて、焼物の一度破るれば元の器にならざるが如しと、如來も御説(おときなされしなり。
ぼさつ戒は仕直しが出来るとて、態(わざ)と破戒するは甚だ不心得の事なり。もし又受けても持(たも)たれまいと思ふ人もあるやと思召(おぼしめす)ゆゑ、梵網経に、大衆心(こころ)に諦(あきら)かに信ぜよ、汝は是れ當成(とうじょう)の佛(ほとけ)なり。われは是れ已成(いじょう)のほとけなりと、つねにかくの如きの信をなせば、戒品(かいぼん)すでに具足すと、仰せられて、此の方どもは戒法を受けて諸佛の位に入りたるものと心もち身持ちを大事にすれば、随分持(たも)たるヽ事と説きたまへり。
一切唯心造(いっさいゆしんぞう)とて、一念の善心をおこす時は佛なり、一念の悪心を發す時は凡夫なり。然かれば心のもちやうが肝
要なり。
戒法を授かり血脈を受くるは、扨々(さてさて)有りがたい事と一念信心のおこる時、直に佛ぼさつの身心があらはれ、釋迦如來と同じ位に至ることを梵網経に、衆生佛戒を受くれば即ち諸佛の位に入る、位大覺に同ふし已る、眞に是れ諸佛の子(みこ)なり(原漢文)、とお説きなされて、ぢきに出家のぼさつ、在家のぼさつと成るなり。其の中に男女の隔てはない。人々信心一つじや。その證據には、畜生の龍女も、五逆の提婆も、一念回向とて心は佛ぼさつ人間畜生等のへだてないと悟れば、かの龍女も變成男子として、同じく無間地獄の罪人なる提婆も、成佛して衆生済度を致せしなり。
このゆゑに心地戒とはいふなり。又
(五丁)
此の戒法に大乘と小乘とのわけがあるなり。
乘とはくるまなり。
車に大小ありて、大いなる車は肥壮多力とて、ちからの勝れたる牛のみ、これをひくなり。小さきくるまの一人のり、二人のりぐらゐの車は、羊又は鹿なども平地のところはひくなり。
又七八人のり位の車は、つねの牛よく是をひくなり。
しかれば乘の大小はひくものヽ力の強きと弱きによるゆゑ、大乘小乘とわかるヽなり。
禪家に授くるところの戒法は、大乘の十六條戒にて、是を根本戒とも、ぼさつ戒ともいふ。それを俗家で心得違ひして、小乘律の五戒八齋戒、十善戒二百五十戒の比丘じや。あるひは常持齋(じょうじさい)でをるなどなど數の
多少を見て、禪戒の十六條戒はあらましなもの。
律僧の戒法は微細な修行じやなどヽおもへども、その心得が格別にて、ぼさつの十六條戒は一切戒の根本にして、大小乘八万四千一切の戒法はみなこのうちに備はりて、こまかに別るに及ばず。
すべて五戒八戒十善戒等も、持ちやう心のもちやうにて大乘戒となるなり。
しかれば大乘小乘はたもつ人にあつて戒法には勝劣あることなし。
たとへば水を天人は瑠璃と見、人間は水と見、魚の類(たぐい)は宮殿と見、餓鬼は猛火と視るが如し。
小乘の聲聞戒は自求涅槃(じぐねはん)とて、その身一人の爲にして済度衆生の慈悲心を欠くゆゑ、其(その)
(六丁)
戒法も盡形壽(じんぎょうじゅ)といふて、生涯の中ばかりにて、未来際を尽すに到らず。ゆゑに大般若経にも、二乘の善根は蛍火のごとし、たヾ自身をてらすのみ。
大乘の善根はなほ日光の山川國土を照すが如しと説玉へり。
みづからの罪過を恐れて受戒するは小乘なり。
慈悲心をもつて受戒するは大乘なり。
そのじひ心といふはこの受戒の功徳を以て地獄餓鬼畜生等の一切の衆生に及したいとおもふ心をいふなり。
此の心を菩提心とも佛心とも菩薩心とも云う。
受戒する人この譯(わけ)よくよく心得てすれば、誠に廣大慈悲の功徳がそなはるなり。其の慈悲心の光明は、如來もその功徳を説(とき)
つくしがたきがゆゑ、光明遍照十方世界念佛衆生攝取不捨と仰せられ、其の慈悲心がすなはち諸佛の心なるゆゑ、念佛の衆生とはいふなり。
此の戒をうくるには因縁がなければ中々受られぬ事ゆゑ、法華経にも佛法には値がたし、時もまた遇がたし。たヾ宿福深厚とて、むかし善因縁の深きもの、うまれて逢(あふ)と説た玉ひて貴賤貧富老若男女によらず、宿世より因縁ある人が善果を引て、受戒したい血脈を受たいといふ、ぼだい心の信(まこと)がおこるなり。
中々一朝一旦の事にてはあらず。
戒の因縁なき人は親子兄弟にても受る心がおこらぬ。
又うけようとおもう信心がおこりても
(七丁)
不時に病気、又は障りなどが出来て、ならぬものがあるは、みな宿世の因縁により侍るなり。
しかなるを何の障もなく受戒し、又は血脈など授かるは、誠に有がたき大因縁なり。
熟(つらつら)この娑婆世界の形勢(ありさま)をかんがへ見るに、何程官位俸禄富貴栄花を極めて、此のうへなきと楽んでも、五十年か七十年、百まで活(いき)るものは稀にて、みなみな生ある者は死ぬるなり。
その死んでゆく時は、たヾ経帷子(きょうかたびら)一枚、六道銭と珠數一連のみ。
妻子珍寶及王位、臨命終時不随者とて、位(くらい)高き方々にても、一人もつきしたがふ者もなく、金銀財寶もみな他の物となり、何でも持ゆくことはなら
ぬ。
平生馴れ睦まじき妻子眷属も、息を引切るとおそろしがりて側へもよりつかぬなり。
これが此界の浅猿(あさまし)さゆゑに、これを有為の寶(たから)とはいふなり。
現在生きて居る間ばかりの事で、さつはり役に立ぬなり。
たヽ一生の善悪の業因ばかり引そふて、極楽と地獄との踏違ひとなるゆゑに、但戒と施(ほどこし)とおよび衆(もろもろ)の善根、今世後世に伴侶となると大集経にも説たまへり。
しかるに宿善によりて血脈をうけ、又は受戒をする無為實相の功徳は生々世々佛果ぼだいの手形を握るなり。
かヽる大切の戒法を受れば、すなはち在家のぼさつの
(八丁)
位なれば、もつぱらぼだい心を發(おこ)すべき事肝要なり。
菩提心をおこすといふは、自未得度先度他とて、手前はいまだいたらずとも、まづ佗を済度せんと心にふかく誓(ちかひ)をなすべし。
これを弘誓(ぶぜい)のふねとも菩提心とも申なり。
たとひ其の形賤しくとも、この心をおこすときはすでに一切衆生の導師となるなり。
たとへば國王の嫡子に生るヽ時も、幼少にてもみなみな及ぶもの無きがごとし。
もしぼだい心を發す時は出世無上の法王の嫡子にして、聲聞縁覺天上人間、そのほか天魔外道みなみな此の人に及ぶものなし。
又人にもいかヾ
してか、ぼだい心を發さしめ、いかヾしてか佛道に引入(ひきいれ)んとひまなく三業にいとなむべきなり。
(三業とは身と口と意とこの三ツの業といふ事なり。身に善事を行ひ口に善法を説き、こヽろに善心を生するをいふなり)
徒に世間五欲の樂をあたゆるをば利益衆生といふにあらず。
又心得ちがひにて、若き時は二度なしとて、大切な父母より生みつけられたるからだを放埓(ほうらつ)にもち崩し、あたら月日をうかうかと暮し、財寶そのほかの物を費し、其の身にも人の嫌ふ病などうくる事、不忠不孝これより大(おを)いなるはなし。
此のぼだい心は發心の初めより究竟の佛果にいたるまで、つひに退轉あることなし。
佛ぼさつは此のぼだい心を手足とも、命根とも
(九丁)
なし玉ふなり。
永平開山道元禪師も、草の庵に立ても居ても願ふことわれよりさきに人を渡さん、と詠じ玉ふも此のこヽろなり。
一人を勧めて授戒さすれば八万四千の塔を造るに勝る。
況んや三人五人乃至數百人をやと、校量功徳経(きょうりょうくどくきょう)、ならびに本業経(ほんげふきょう)に説玉へり。
一人を教へ勧むる功徳さへそれなれば、まさしく信心ありて受戒するの功徳、その廣大なる、中々言語(ごんご)の及ぶところにあらざるなり。
戒法を受くるには、まづ無始劫來(むしごうらい)とて、此の生も、そのさきの生も、又そのさきの生もいく千万億の數も、限りもし
れぬ生々世々の罪過(つみとが)を懺悔して、身も心も清淨(きよらか)にして、受くへきなり。
たとへば衣裳などの垢づきよごれたるを、灰汁(あく)を以てよくよく洗ふときは、元の白地となるなり。
其のあらひ上げたるきぬを藍につくれば、染色のうるはしく附くが如し。
むかしより造るところの三毒五欲の種々(さまざま)の罪とがの垢を、業障懺悔の心の水にて洗ひ浄むれば、直に白淨無垢の白地となりたるを、佛祖の正傳し玉ふ菩薩戒の藍に染れば、たちまち諸佛同等の色をうくる事、有りがたきにあらすや。
戒は重授を貴むとて、幾度も受ればうくるほど果報のすぐるヽ事、藍のいく
(十丁)
入(しほ)にても染むるほど色を増すが如し。
懺悔の懺の字は來を懺といふて、此ののちは誓つて悪き事をば致すまじといふ意なり。
悔の字は往を悔るといふて、因果の理をわきまへずして、是まで悪事悪心等を作せし事、罪業恐ろしき事と、手まへをふかく恥入るこヽろなり。
又懺悔に事理(じり)の二しなの譯あり。
理のさんげとは、善知識の悪不善罪業の事を説き示すを聞てふかく心に畏れ、一切の業障は妄想より生す。
妄想より生するがゆゑに、自性とヽもに空なりと、實相智慧の朝日をもつて、衆罪の霜露(そうろ)を消滅するをいふ。
事の懺悔とは、發心してあらゆる一切の衆生のために、一切の三寶を敬禮(きょうらい)し、又は七日夜(にちや)、三世の三千佛を禮拝し身心ともに、つとめつとめて精進するをいふ也。
華嚴経行願品の懺悔の文に、我昔所造諸悪業とは、われむかしより造るところのもろもろの悪きわざは、皆由無始貪瞋痴とてみな無始の、いつをはじめとも知らぬ過去遠々のさきより、貪欲と瞋恚と愚癡との三毒によつてつくるとなり。
従身口意之所生とは殺生偸盗邪媱の身の三つと、綺語悪口兩舌妄語の口の四つと、貪欲瞋恚邪見の意(こころ)の三つとによりて
(十一丁)
生するとなり。
一切我今皆懺悔とは、上(かみ)のごとき三毒十悪のつみとがわれ今みな發露懺悔するとなり。
三業相應とて口には懺悔の文をとなへ、身には合掌と手を合せ、意(こころ)にはふかく罪過(つみとが)をおそれて一心にさんげする時は、妙不思議の佛智力(ぶちりき)と、一心さんげの誓願力と共に冥合(みょうごう)して、いかなるつみとがにても、朝日に霜の消ゆるがごとく、忽ちほろび失せて、大清淨の身心となるなり。
次に十六條の戒相を述べし。
梵網経に釋迦牟尼佛、菩提樹の下にて成佛ましまして、初めにぼさつの波羅提木叉(はらだいもくしや)を結して、父母師
僧三寶に孝順せしむ。
孝順は至道の法なり。
孝を名けて戒とすとの玉へり。
孝敬と孝(した)がひ敬ひ、順奉(じゅんぶ)と順(やわ)らぎ奉(うけたま)はるをいふ。
孝は百行(ぎょう)の本にして、この戒の通軌(つうき)なれば、努力(つとめ)て任持(にんじ)とたもつへきなり。
(波羅提木叉とは天竺の詞なり此方のことばにすれば別解脱といふ事なり。殺生戒をうくれは殺生の罪をまぬかるヽゆゑ別に解脱すといふ事なり)
初めに三歸戒
三歸とは佛と法と僧と、此の三寶に歸依するといふ事なり。
此の佛法僧を何ゆゑに三つの寶(たから)と名くるなれば、世間にては金銀をたからとして上(かみ)天子将軍より、下(しも)乞食非人に至るまで同く寶とするが如く、金銀さへあれば、いかやうの苦患なる事も免れ、いかやうな成がた
(十二丁)
い事でも成就するは寶の徳なり。
金は何ほどきたなき淤泥(どぶ)の中にありても色を損せず。
火に入れば火にあふほどあざやかになるなり。
佛法僧の三寶もその通りにて、無量の善根功徳そなはりて、欲垢煩悩のどぶに入れても、其の穢れに染ず。
三毒五欲の火に焼ても、いよいよあざやかになるゆゑ、開祖道元禪師も、佛法僧に歸依する時、諸佛の大戒を獲ると稱すとの給へり。
もとよりこの三寶は、人々具足個々圓成とて、佛ぼさつ人間は勿論畜生虫豸(むしけら)までもそなはりて、佛ぼさつに有ても大ならす。
凡夫むしけらにありても小ならす。此のゆゑに
華厳経に三界とは一心なり、心のほかに別法なし、心と佛と衆生と、此の三ツともにへだてなく、佛ぼさつ同じと説かせられたり。
しかればその佛と同じいところのものが、何ゆゑに凡夫畜生虫豸と生(な)りさがるぞなれば、一念の無明をおこして我といふものをこしらゆるゆゑ。
我があれば我所(がしよ)とて、それに対する妄法か出来て、自然(じねん)と五塵六欲種々の煩悩の障(さわり)をこしらへ、つひに明らかなる事、佛と同じ心の鏡(めぐみ)の光を蔽(おお)ひかくすゆゑ、據(よんどころ)なく凡夫となるなり。
凡夫となるといへども、一念回光すれば、本得に同じといふて、扨々(さてさて)有がたいといふて信
(十三丁)
心を發して三歸をうけ、又は唱れば直に元の光りがあらはるヽなり。
むかし悪人ありて一切の悪行なさずといふことなし。
其の妻は信善(しんぜん)の生得(うまれつき)なりゆゑ、しばしばこれを諫むれども聞入れず、却て悪事を増長するゆゑ、今はせんかたなく、夫(つま)の堕獄(だごく)の苦をかなしみ、一つのはかりことをおもひ出でヽいふやう、ふかき宿世のえにしにて歳月そひまゐらす事の嬉しさは、いふばかりなれども、わらはが申す事、何事も御みこころにかなはず。
さこそいぶせくおぼすらめなれば、身のいとまを給はるか。
さなくば毎夜わらはが、臥房(ふしど)に入りたまふ時かねを打べし。
その音を聞
とき南無佛ととなへ來り給ふべし。
此の二くさのうち、いづれにてもきかまほしとありければ、其の夫つくづくかんがへいふやう、暇(いとま)とらするよりは、南無佛といふこそ心やすけれ、かねさへ鳴らば、いく度にても唱ふべしと。
妻大(おおい)によろこび、それより鉦(かね)を相圖(あいづ)に南無佛と唱ふること口癖になりてくらせしに、其の夫いさヽか心地(ここち)なやみて、ついにむなしくなりぬ。
胸もとすこし温かなるゆゑ、其のまヽにておきけるに、三日を経て、蘇生(よみがへ)り、その妻を禮拝していひけるは、われすでに、死しけるに、怖しき獄卒(ごくそつ)ども我を火のくるまにのせ、閻王(えんおう)の廳に引すゑ、善悪それそれ
(十四丁)
しらべ玉ふに、極重悪人なれば無間獄に堕せしむべしと。
その時情けなくわれを引たて、聞も怖しき鐵城の猛火のうちに投こみけるに、いかヾしたりけん。
獄卒の鐵棒、钁(かま)にあたりて聲を出すに、平生の口ぐせにて覺えす大聲に南無佛と唱へけるに、不思議や、只今まで炎々たる大火坑たちまち清凉の池と變じ、八功徳の水に青蓮華生ひ出て、獄卒數多(あまた)の罪人のこらす生天の果を獲たり。
かく有難き奇瑞の折から、無量の諸佛、我を摩頂(まちょう)しての玉はく、いまだ命數(めいすう)尽ざれば、娑婆に還りて妻の恩を報じ、又諸人にもあまねく三寶の功徳を知らすべしとの玉ひけると語りけるにぞ。
夫妻いよいよ精進して、ともに上天の果報を得しとかや。
又如來御在世の時、南天竺のはし國に、五戒をたもち三歸をうけし信心の男あり。
如來の功徳の廣大なる事を聞て、何とぞ人天集會の座につらなり、有がたき御法(みのり)を聴聞せんと、はるばる數千里険難の山川を越けるに、ある日渺々(びょうびょう)と廣き原を過るに、日ぐれになれども宿るべき人家も見えず、殊に虎狼などのあとばかりありて、すごき事かぎりなく、たヾほとけを渇仰し奉るを力にたどりゆくに、一ツ屋ありて、火の光りあるを見て嬉しくおもひ、其の家にいたるに
(十五丁)
年のころ二十二三才ばかりのうつくしき婦人、火にあたり居るに、そのをとこしかじかの事にて道にまよひ、日をくらせり、一夜の屋どりを乞ふといふに、婦人いたく、心やすき事にて御屋どはかし度侍れども、わらはが夫(つま)は、人を喰ふ鬼にて、今にもつれ合帰りなば、御身の命なかるべし。
これより二里ほどによき人ざとあるなれば、それまで御こししからむといふに、此の男われらは佛弟子にて守護の神たち付そひ玉へば、如何なる鬼も指ざす事なし、ひらに一夜を明さしてよといへば、御心にまかすべしとて、屋どしけるに、婦人のいふやう、わらはも人間
にて是より千里ばかりわきのものなるが、此の家の鬼にさらはれて、此のところにうき歳月を送るぬ。
あはれ君のごとき、うるはしきかたにそひまいらせば、いか許りか嬉しかるべきとかきくどくにぞ。
男も年わかければ、婦人の婀娜(たをやか)なる容儀(すがた)に愛て、然らは如來の御もとにゆくことをやめて、三歸五戒もほとけにかへし奉りて、國元につれかへるべしと、たがひにあだ心になりければ、忽ち亭主の鬼入り來るゆゑ、其の男を大桶の中にしのばせおき、今日は何ゆゑ御帰り遅かりしやといふに、今日は仕合(しあわせ)あしく、人一人も取えす、其の上其の方
(十六丁)
が佛でしに宿かしけるゆゑ、三帰戒守護の神たち、此の家を守るゆゑ、四方十里のうちには、われらがごときものはよりつく事ならずありしに、色にめでヽ佛戒をかへす心出来しゆゑ、守護の神達見はなして去り玉ふゆゑ、われかへる事を得たり。
大きに飢ければ、速かにやどし男を出すべしと。
かくれし男も婦人も誠に恐れける。
其の時、婦人のいふやう、三帰戒とはいかなる事にて、神々も守り玉ふや、わが夫(つま)もしり玉ふらむ、となへきかせ玉はヽとめし旅人を出すべしといふに、さらばとなへ聞すべしとて、此の鬼、南無帰依
佛と唱ふるに、婦人もかくれし人も、南無帰依佛とうけてとなへ、帰依法僧ものこらず、鬼の口まねをしてうけとなへけるに、此の鬼のいふやう、三帰戒を守りの神達、又々來り玉ふとて、怖れおのヽき迯げ失けり。
両人ともに三寶の威力廣大なる事心肝に徹して有がたく、ともに祇園精舎にまゐり、見佛聞法して、いよいよ信心を増し、五戒の佛でしとなり、國にかへりて、子孫ますます榮へけると、戒消災経に説玉へり。
かヽる悪人にて殊に假初(かりそめ)に南無佛と唱るすら、無間の獄苦をのがれ、殊勝の果報を感じ、又三帰をうけし優婆塞は、羅刹の妻なる
(十七丁)
婦人にめでて信心を失ひしも、おにの授くる三帰戒を受るだに、婦人も共に羅刹の難をまぬかれたり。
況や誠信にて三寶に歸依するの大果をや。
すべて戒を受けたるものには、守護の神々晝夜につきそひて、もろもろの障をのそき、一切の福徳をあたへ玉ふと佛経のうちに、處々の説きおき玉へり。
又、自誓懺受(じせいさんじゆ)とて衆生済度の心願をおこし、日々となへて回向すれば、先祖をはじめ一切の衆生、皆その功徳をかうむり、其の身はますます佛神の加護にあひ奉り、現世は福祿壽命を増し、來世は決定(けつじょう)して勝妙の果報をうくることうたかひなし。
(此の自誓懺受法は別に出すへし)
又懐胎の女人三帰戒を受れば、その胎内の子、利根發明にして無病息災なりと阿含経に説たまへり。
(三寶に一躰現前住持の三種の徳をそなへあれども、文の繁きゆゑ、こヽに略するなり)
次に三聚淨戒
此の三聚戒を一切戒の根本なりと瓔珞経に説せられ、菩薩の十重戒四十八軽戒、比丘の二百五十戒、比丘尼の五百戒、在家の五戒、八関齋戒、十善戒、其の外三千の威儀、八萬の細行、あらゆる掟をすべて此の三つのうちに攝聚(おさむ)るゆゑに名くるなり。
第一攝律儀戒
この戒は諸悪莫作とて、十悪業等の一切の悪事、すべ
(十八丁)
て道に背く所有(あらゆる)不善の事、誓つて止めやうと要期しつとめべきなり。
たとへば殺生戒を持(たも)てば殺生の一悪が止むなり。
偸盗邪媱等すべて是れに準するなり。
次第に修行すれば、佛の断徳を成就して、清淨法身を得るなり。
第二攝善法戒
此の戒は衆善奉行とて、ちかつて一切の善法をつとめおこなふべしと要期する事なり。
君父に忠孝を竭(つく)し、信義をもつて人に交り、仁惠を施し、よくそれそれの道をまもり、あらゆる法門を積みあつめ、次第に修行すれば、佛の智慧を成就して光明赫奕(こうみやうかくやく)なる圓満報身を獲るなり。
第三攝衆生戒(又は饒益有情戒ともいふ)
この戒は廣度衆生とて、誓つてあらゆる衆生に断悪修善の妙行を教へ、身を捨ても利益の事をなすべしと要期(えうき)すべきなり。
慈悲喜捨の四無量心と、布施愛語利行同事との四攝法をもつて、次第に修行増長すれば、仏の恩徳を成就して、應化身を獲るなり。
この三聚の淨戒は人々一念の信心より現成して、つひに法報應の三身、智断恩の三徳、みなおのおののうへに明らかにそなはり、如來常住の功徳を圓満するなり。
十重禁、其のほか一々の戒にみな三聚の義を含めり。
しかれば一戒一戒
(十九丁)
其の功徳廣大無量にして、法界に充満(みちみち)て、釋迦彌陀地蔵観音等の、佛ぼさつと徳を等うするゆゑ、此の戒を受るものは、位ほとけにおなじとヽきたまふなり。
又この戒をうけざるものは、生々世々に六根不具の身に生れ、貧乏無福にして、佛法のいたらぬ無佛の國土、外道邪見の處に生るヽゆゑ、いよいよ因果の道理を辨(わきま)へざるゆゑ、いやとも地獄餓鬼畜生の三悪趣に苦をうくるなり。
今生にて天子将軍大小名、そのほか富貴自在の身に生るヽは、前生において戒法血脈をうけし勝縁の餘慶なり。
いよいよ前因をわすれずして、あつく因果を信じ、受戒作善等の心をおこし、是れを衆生におよぼす時は、ますます來世の勝果を獲る事疑ひなし。
次に十重禁戒
十重とは八万四千の戒行の中にわけて十のおもき制禁といふ事なり。
第一不殺生(又は快意殺生戒ともいふ)
ぼさつの本願はあらゆる衆生を誓つて済度せんと要期すべし。
しかるを快(こころよ)きこヽろ、嬉しき心をもつて殺生するは大慈悲、抜苦與樂の善心にそむき、永く佛性の種子を断するゆゑに第一に制禁(せいきん)し玉ふなり。
しかるを無益の殺生を好み、又小のむしをころして大の虫を助くるなどヽ得手勝手の事をいへども、命のおしき事はいつれも
(二十丁)
同じ事なり。
人間は義理のわきまへあれば、事により、君のため、又は人の為にも、命を塵芥よりも軽くする事あり。
畜生は愚癡にて理にくらければ、たとひ蛤(はまぐり)うなぎなどを殺すも、不仁の仕業にて大きに恥べき事なり。
人は万物の霊なれば、仁心ありて生あるものをやしなひ、そだつべきが人間に生れ得たるのあたりまへなり。
それをころし、又は味ひを嗜むは、恐しき事にあらすや。
殺生戒をたもてば生々世々長命の報(むくひ)を得て、子孫繁昌すると因果経にも説き置せ玉ふ、よくよくつヽしむべし。
第二不偸盗(又劫盗人物戒といふ)
三寶物、鬼神物とて、神ほとけの物、又は筆先秤升等にて欺きとり、賄賂(まいない)などヽる事は至つて重き罪なり。
一切、主あるものを、紙半枚、一糸筋なりといへども取り掠め、すべての人の愛するものを奪ふは、他に苦悩をかくる事にて、ぼさつの誓願にそむくゆゑ、かたく制し給ふなり。何によらず、財物は命のことくをしむものなるを、それを己にいるヽは人たるものヽ仕業にあらず。
現世には人間第一の恥辱をうけ、未来は貧乏無福卑賤の身に生れて、一生人につかはれ、永劫悪趣に沈んで大苦をうくる事、愚昧のいたりなりといひつべし。
(二十一丁)
第三不貪媱(又は無慈行欲戒といふ)
この戒は出家は一生不媱なるゆゑ、専ら在家のぼさつにかヽる戒なり。
夫(おつと)は自分の妻妾は正媱なり。
又販賣の女とて遊女など、價をもつて買ふはゆるすともあれども、又、邪媱に属するなり。婦(つま)は夫(おつと)の外に身を汚さぬやうにするは正媱なり。
つまならぬ夫を重ぬるは邪媱なり。
正媱にても非時非處非量などは邪媱とす。
出家などを落し、又持戒の尼僧など、しひて交合するやうの事、はなはだ罪おもし。
此の媱事なければ三界の苦悩はうくることなし。
欲界に生れしもの、われも人もつヽしみがたきは此の欲なり。
たとひ在家たりとも、ふかく五欲の過患(とが)をおそれ、迷沈する事をつヽしむべし。用心堅からざれば身をほろぼし、家を滅ぼし、國を乱し、親族を辱かしめ、來世三悪道の苦を招くこと火の乾けるにつくがごとし。
第四不妄語(又故心妄語戒といふ)
此の戒はすべて佗(ひと)を欺き罔(な)みし、己を利する不淨不實の心を制禁するなり。心不實なれば妄語をなすこと自然なり。
故心とてわざわざこしらへて妄語し、又出家なと身に殊勝のなりふりを現じ、口に奇怪の事を説て、人の尊敬するやうの事を貪求するは、大妄語にして三悪道の大罪なり。又
(二十二丁)
見たるを見ぬといひ聞きたるをきかぬといひ、聞かぬ事をきいたといひ、見ぬことを見たりといふがごときは小妄語なれとも、正直ならざるがいたすところなり。
在家主君などのまへにて、假初(かりそめ)の妄語が事によりて大事に及ふあり。
慎むべきなり。
又時により人により、機を見て妄語するは、かへつて實語となるなり。
妄語に十種のとがあり慎むべし。
第五不酤酒(又は酤酒生罪戒といふ)
酒は人に昏迷の心を起さしめ、智慧の眼を昧ますもの故、誡しめ玉ふなり。
しかれども本朝は愁(うれひ)にも酒悦(さけよろこび)にも、さけ喧嘩にも、中なほりにも、堕着にも親(したし)みにも、皆々酒にて済み來れば、乱れに及はざれの聖語を守るを此の戒を持(たも)つといふものなり。
それを嗜みてこれを飲み、家業におこたり、家をやふり恥辱をわすれて、酔興に光陰を送るものは、死して沸屎地獄(はつしじごく)に堕ちて、後に猩々獣中(しょうしょうじゅうちゅう)に生ると説きたまへり。
こヽろあらん人は、よくよく慎むべきなり。
第六不説過(又は談他過失戒といふ)
この戒は戒法を受けたる出家在家などの犯戒あるを、いまだ戒をうけざる人、または外道悪人のまへにて、其のとがを説きあらはすを制し玉ふ戒なり。
すべて佛法の中のとがを他に披露すれば、他の信をさましてぼさつの法をひろめ、衆生
(二十三丁)
を済度するをやぶり、他に謗罪を作らしめ、己れも悪報をうけ、廣大の罪なり。
人の長(よくこと)をば讃(ほ)めて、人の短(あしき)をば説く事を恥とすべし。
涅槃経に、もし衆生善の讃すべき無きときは當に佛性を念じて之を讚歎すべし(原漢文)と説き玉ふ。
すべて人の過失を談するは來世に醜陋(しゅうろう)の報をうくといへり、恐るべし恐るべし。
第七不自讃毀他
自讃とは手まへの事を讃め、毀他とは他の事を毀(そし)る事なり。
人の尊敬をもとめ、みづからの利潤をむさぼる心より、他を損するなり。
ぼさつは他(ひと)の悪事をも己れに引うけ、他の苦難にも代るべきに、おのれをほめて他をそしり、善事をわが身にあけ、悪事を他(ひと)にむける事は最も耻づべき事なり。人をそしるものは來世に中風又癲癇等の難病をうくるなれば恐るべき事なり。
第八不慳法財(又は慳惜加毀戒といふ)
此の戒は出家は法施を慳(おし)まず、在家は財施ををしまされとの事なり。
それを法をもとめてもすこしばかりの法をも説かず、財をもとめて手のうちばかりも施さず、そのうへに立腹して、なほしかり辱かしむる事ははなはだ大罪なり。
何にても他の利益になるに事は施すべし。
布施は四攝の初めに置き、六度の第一にて
(二十四丁)
貪欲をはなるヽぼさつ行なり。
もしまた施(ほどこし)をうけて恩をわすれ功徳を念ぜさるは畜生におとるなり。
高貴の方には物を他にたまふとき、われこそ施したれとおもふ念を離れ、前生によき戒善のたねを植たるゆゑ、人に物をほどこす果報を獲て、嬉しき事かなと、清淨慈善の心にてたまふは、誠に最上無為の大功徳なり。
又主君より多少によらず拝領せば、いよいよ報謝の志(こころざし)を運ぶべきなり。
又施す人と、うくる人と施物と此の三ツながら慳む心もなく、うくる心もなきを、三輪清淨(さんりんしやうじやう)といふゆゑに、三輪明神の神託にも、三ツの輪はきよくきよきぞ、から衣くるとおもふな、とるおもはじと。
是れを不慳の戒躰といふ。
慳は餓鬼の因なれば、よくよく慎むべし。
第九不瞋恚(又は瞋不受謝戒といふ)
この戒は堪忍を躰となし何事にてもおのれが氣に背く事あれば、瞋忿(いかり)の念を生するなり。
梵網経にも悪口をもつて罵り辱しめ、そのうへに打擲(ちょうちゃく)してもいかりやまず。
それを善言懺謝(ぜんごんさんじや)とわびことすれども、聞入ざるは大罪なり。
瞋りは慈悲の裏なれば、心をつけてつつしむべし。
一念のいかりに無量の功徳を焼盡(やきつく)すと華
(二十五丁)
厳経に演説あり。
瞋は地獄の因なり。恐るべし。
第十不謗三寶
三寶を讚歎すれば廣大の功徳善根を生じ、三寶をそしれば第一同體大悲の佛心に背き、自身を知らぬものなり。
物を妬み人をそしるは心のせまきものいたすところなり。
よろしく賢を見ては齊しからん事をおもひ、不賢を見ては我身もかくありやとふかく省みて、善事には一足(ひとあし)もすヽむべし。
それをうちかへして毀謗すれば廣大の犯罪なり。
しかるを邪見を起し、地獄も極楽も罪もむくひもなきなどヽ
心にもおもひ、口にもときて因果を撥無するを断善根(だんぜんこん)の人といふ。
ぼさつ戒をうくる者はよろしく四弘の誓願に策(むち)うちて、ぼさつの正道に進むを戒體とするなり。
初めの三帰と次の三聚と、後の十重とを合せて、佛祖正傳の十六條戒といふなり。
釋迦彌陀地藏觀音など、あらゆる佛ぼさつの持(たも)ち給ふも、凡夫の持つも同しくこの十六條戒にして、戒に二ツはなきなり。
たとへば金銀は天子将軍の用ひたまふも、乞食非人の用ゆるも、金銀にかはりなきがごとし。
たヾその功徳を努力(つとめ)て増長するとせざるとによりて勝劣もあるべし。
たとへば大
(二十六丁)
地に種子(たね)を蒔けば、天地雨露の惠みをうけて必ず苗の生するなり。
それを二葉より雪霜などに損せぬやうにそだつれば、程なく大木となるが如し。
菩薩戒もその通りにて、次第次第に戒徳かそなはりて佛にちかき功徳があらはるヽなり。涅槃経に、發心畢竟二無別とあれば、今日有難い一念にて、戒をうくる心がすなはち發心なり。
それより次第に修行して成佛に至るを畢竟といふ。
しかれば今日發心の凡夫と、畢竟の如來との二ツがすこしもちがはぬ功徳といふ事にて、戒をうくるやいなや、諸佛の御子(みこ)なるゆゑ、日々に衆生済度の願をおこすを大心のぼさつといふなり。
又戒法は公儀の掟と同じ事なり。
戒法の掟がなければ殺生等の十悪は勿論、不孝不忠のあらゆる悪法ばかりをなして、人間あたりまへの天理にそむくゆゑ、いやとも三悪道に堕するよりほかに行き處なきなり。
又戒法に性戒、遮戒といふ事あり。
性戒とは元よりの掟といふ事にて、如來の御出世以前より、人を殺すものは、其の身もころされ、盗みするもの、人の妻子(つまむすめ)と奸通するもの、妄語とうそをいふもの、君に不忠、親に不孝なるもの、すべてそれぞれの罪に行はるる天下國家の戒法(いましめ)
なるをいふ。
(二十七丁)
遮戒とは兩舌をもつて人の中を破り、悪心を以てひそかに人を毒殺し、面は柔和にして心に悪をいだき、酒をのみて五戒を破り、種々の邪見をいましめ玉ふをいふなり。
遺教経にも、若し淨戒なければ、諸の善根功徳みな生する事を得すと説き玉へば、たヾたヾつとめて凡夫心のいやしきをすてヽ急ぎて三菩提の功徳を積みたまふべし穴賢(あなかしこ)。
文政二己卯夏五月吉日
寂室堅光杜多在于江州清凉方丈室示焉