寂室堅光
江州萬年山天寧禪寺開山寂室堅光禪師略傳
師、諱は堅光、寂室と號す。
俗姓は藤原、氏は宮本也。
豊前國宇佐郡敷田村(現今天津村字敷田)の産にして、父は式部少輔包美といひ、母は深水氏といふ。
寶暦三年(1753)癸酉の五月十八日を以て誕す。幼名を方朔と云ふ。
年甫(はじめ)て五歳の時、祖父の喪に遇ひ、親族の爲に携へられて荼毘の場に臨みたまひしに、潜に早く世の無常なることを覺りたまへり。
其の後因みに同村の金剛寺に詣で大布薩の法要あるに會ひ、師も亦衆と倶に籌を戴き法式了りて、我が家に帰りたまひしが、其の法要の如何にも厳粛なるに感じ、時已に志を決して出家せんとす。
師、十歳の時佛涅槃の日を以て豊後國松屋寺(速見郡日出町)大堅和尚に投じて剃度の式を受け、法號を空海と名く、後に寂室堅光と改む。
時に堅和尚示して曰く、夫れ出家は須く先づ堅固の大願を發し、順逆の諸境に逢ふと雖も、其が爲に移動せられざるべきを要す。若し然らずんば他の俗流と何の別つ所か之あらんと。因に語て曰く、昔時色定法師なる者あり、曾て遠く宋に入り、一筆書寫大蔵経の願を發したりき、其の寫す所の全藏は今尚宗像(筑前國の郡名)の鎭國寺に現存せりと。師之を聞て感激の餘り落涙襟を沾す。
翌年八月(寶暦十三年・1763)遂に筑前の宗像郡に遊びたまひぬ、
而して師の居所と鎭國寺と相離ること若干里なりけるが、其の間の山路甚だ險隘なり。
師偶々彼寺に到りしに、寺僧肅然として遠来の意を問ふ。
師答ふるに具さに情を以てす。
寺僧深く其の志に感じ謂て曰く、定法師手寫の經巻は當寺貴重の秘寶なるに由り、僅かに断片零紙と雖も敢て容易に人に付與せず、然るに于が形を盡すまで奉持せんと欲する其の志や眞に嘉すべしと。
遂に一經巻を把て之を授く、師終身護持して身を離したまはず。
爾しより諸師に從ひて教相を聴くこと數年、安永四年(1775)乙未、師二十三歳にして大藏経の閲讀を始め、同七年(1778)戊戌の八月其の功を終ふ。
是れより天下の善知識に參見せんとし、初め棟外和尚を長門の功山寺に訪ふ(豊浦郡長府村に在り外和尚は華嚴曹海に法嗣にして雪鳳金翎の後住なり)錫を留めて随侍す。
時に外和尚南嶽懷讓の六祖大鑑に參じたるの因縁(何物か恁麼來)を看せしむ。
因に作務の次で一塊石を钁破して箇の省力の處を得たれば、直に方丈に走り所解を呈して曰く、「崑崙端無く縫罅を見る」と。
外曰く未在と、師便ち拝を設て去りぬ。
外時に黙然たり。師此の寺に在ること多年精勵軀を忘れる。
毎夜獨り方丈の後庭一大石の上に凝坐し、更の深るに至りて止む。
棟外和尚功山を辭して後松小田の白爾軒(長門國豊浦郡豊東前村字松小田)に隠栖す。
師も亦随て留侍す。
此の歳の夏諸國の人民多く伊勢皇太神宮に趨詣し、老弱提携して晝夜喧譟たり。時に白爾軒の門外なる大路に由りて過る者絡繹として絶えず。
此の時節多く草鞋を貯へ以て通行人に施與す。
衣帶之が爲に都て竭く。
衆人其の愚を笑へども師自若たり。
然るに府著三原氏の室のみ獨り師が壮歳にして惠施に勇なるを嘉歎し、贈るに衣服等の物を以てす。
同年の秋七月長府村笑山寺に掛搭し、海外亮天和尚と機縁相投じて嗣子の禮を取る。
(天和尚に三子あり曰く珍牛曰く富山曰く師孰れも法中の龍象たり)
八月に至りて摂心すること四五次、其の刻苦他輩の能く及ぶ所に非ず。
天和尚も亦屢々爲に激策して禪杖五十餘箇を拗折するに至る。
時に灞水の(灞水とは椹野川の別名ならん)暴漲するを見て省あり、自ら謂ふ方に始めて潙山の謂ゆる聲色裏に安眠し去れといふことを薦得したりと。
時に趙州の眞龍和尚を叩くに此の事を以てす。龍曰く是なることは則ち是なれとも尚是れ借來底と。
時に又呑海和尚其嗣没底量公の爲に化を灞城(是は山口城の別名乎)の楊岐峯に助く、師輙ち徃て掛搭す。
前話を請益し見解を呈して曰く、「流水聲の中流水を聞かず、白雲堆裏に白雲を見ず」と。海公微笑して首肯す。
又北地に遊びて加洲寶圓寺(金澤市に在り)の海公に到り、次に越中高岡瑞龍寺昶公の處に到りしに皆爲に印可せらる。
最後に鐵門道樹和尚を尾州の泉松寺に(春日井郡青山村に在り)訪ひ問て曰く、和尚の膝下を離れてより幾時をか隔つ。
樹曰く、上座昨日美濃より到ると是なりや。
進て曰く某甲未た彼地に到らさるを悔ることあるのみ。
樹曰く、汝親しく山に歸るに遭ふ、進て曰く慚愧と。
一夕側の按蹻に侍する次で再び聲色の話を咨問す、樹忽ち曰く、這裏聲色無しと。
師覺えす起禮三拝す、樹拶して曰く、儞甚麼の道理を見てか禮拝す。
師曰く、聲色以前に去る、樹曰く恐くは箇裏の活計ならん、師曰く工夫亦箇裏を出です、樹曰く放下し去れと。
寛政二年(1790)庚戌、師三十九歳、初て長州川棚(豊浦郡に在り)の妙青寺に住持す。同六年甲寅の九月毛利侯の請に應じて金山に住持す。
(曲さには金山功山護國禪寺と名く毛利侯の菩提所たり)
金山時に一千五百衆を安居せしむ。
師入山の後衆と共に分衛したまふに、寒甚ふして風威殆と面を螫すが如し。
時に一僧有り直裰を捲起し頭に被つて行く、師侍者をして之を問は令むるに曰く法華林(箇は攝津國西成郡西中島村柴島法華寺の事なり、師の本師亮天和尚曾て此の寺に住して中興と稱す)の僧なりと。
夜に至て師其の僧を召來り責て曰く、師翁(亮天和尚の事乎)の汝を差して此に來ら令むるは其の意嚴會に在らんと欲す、而るに今寒の爲に儀を廃す豈規摸に堪へんやと、即ち趕出す。以て家風の嚴令なるを知るに足る。
同十年(1798)戊午の春、大藏經を京師より請したまひぬ。
是より先、師攝の法華林に在るの日晝間には碓踏み夜間には老隱亮天和尚の爲に蹻を按じて疲倦有ること無し。
老隱時齢七十有三、師五十有餘に向として其の能く師翁に孝順なること如此。
同十二年(1800)庚申の十二月十五日老和尚の訃到りたれど、制中禁足なるを以て赴くことを得ず、詩を作りて之を悼む。
文化元年(1804)申子の二月井伊直中侯(左近衛中將藤原の朝臣)の請を受て武州世田谷豪徳寺に移轉す。
(同寺十六世を漢三道一禪師とす、師は其の後董にて同寺十七世たり)
同十一年(1814)甲戌の四月江州彦根の清凉寺に移轉す。
(漢三和尚は此の寺にても十六世にて、師は其の後住たり、故に師は亦十七世たり、世に謂ゆる有名なる彦根の漢三とは便ち道一和尚の事なり)
師常に清凉僧堂の能く多衆を容るヽに堪へざるを以て憾みとし、因に之を有司に告げ、別に新僧堂を營み以て修道に便りせんことを請ひしに、同十四年(1817)丁丑の四月聴許せらるヽを得て新僧堂成る。
時に大夫小野田爲典師に謂て曰く、宗徳寺は乃ち井伊直中侯の廟祧にて其の境近く閭閣に逼るを以て今は更に處を相し之を山林に移さんと欲す如何と。
師曰く、善哉と。
遂に里根村(江州犬上郡青波村字里根)の山荘を卜す。
此は是れ叡嶽金龜上人終焉の地なり。
新に伽藍を建立し改めて萬年山天寧寺と號す、師を請して開山祖と爲す。
文化十(四?)年(1817)丁丑の四月、加洲希翁院の請に應して助化す。
時に珊瑚の數珠を贈る者ありたれど、師は貧道の須ふる所に非すと謂つて乃ち之を却く。
文化十一年(1814)甲戌夏五月十五日
寂室堅光、江州湖東鷲峰の麓にて十善戒信受の人に示す。
尚、これは文政元年(1818)に「十善戒法語」として刊行された。
文政二年己夘(1819)夏五月、寂室堅光、江州清凉寺方丈にて「菩薩戒」の戒法を説く。この説戒が「菩薩戒童蒙談抄」として、後に刊行された。
直中侯或る時師に謂つて曰く、五百羅漢を天寧の境に安置せんと欲す是なりや否やと。
師曰く日本國内の清平乃至法界有情の爲ならば、應眞の尊者を勧請すること不是ならす、然れども若止た封域安穩及び自己祈願の爲のみならば、國中に自ら大小寺社の在る有り、何ぞ別に更に造立することを要せんやと。
侯曰く斯れ乃ち余が心の所願なりと。是に於て乎。
此の歳の五月を以て堂基を固め遂に五百羅漢の像を勧請す。
師既に天寧に閑居したまふや一老狐あり、常に來りて師の坐側に馴る。
白日出て山犬と遊べども互に相猜ます、師の遷化後に至りては更に復來らざりきと。
師胎に在るの日、母氏爲に喫烟を断つ、故を以て師は一生痰癊を患へす、亦頭痛なかりき、性睡眠に薄し。
凡そ人の乞ひ求むる所あるをば肯て之を拒ます、分に随ひ割て之を與へたまはざることなし。
師の著書に係るもの菩薩戒童蒙抄の外に五會録二巻、香語秉炬二巻、頌古詩偈文二巻、仮名法語一巻、十善戒法語一巻ありと云うと雖も惜むらくは世に傳はらす。
師には尚嗣法の弟子及び一代の逸事等少なからすと察すれど、今之を詳かにすること能わざれば此に録するに由なし。
天保元年(1830)庚寅の七月十日衆に遺誡し訖りて眠むるが如くに歸寂したまへりとなん。
世壽七十有八。
墻外道人曰く、師の遷化より明治己亥まで僅に七十年なれども其の傳の詳かなる者なきは甚た遺憾とする所なり、予此の菩薩戒落草談を改版印刷せんとするに際し師の祥傳を巻尾に附せんと欲して其の材料を得るに力めたれども遂に其の詳細なる者を得ざりき、以上記する者の如きは江州天寧の現董吉尾正龍和尚より、同寺蠧簡の内より得たりとて、漢文に綴りたる三四葉の畧傳を送られたり、仍て之を主とし、尚三五の宿徳嗜年に質問し之に多少の取捨を加へて師の略傳とは爲しぬ、若夫れ尚詳かなる材料を得るの日あらは、更に追加訂正するに吝(やぶさ)かならさるべし。 (墻外道見《高田道見》)
尚、この「江州萬年山天寧禪寺開山寂室堅光禪師略傳」は明治32年(1899)6月5日発刊の「菩薩戒落草談」(編輯兼発行人・桐村覺豊、発行所・通俗佛教館)の巻尾に集録さているものである。
「菩薩戒落草談」は寂室堅光講説の「菩薩戒童蒙談抄」を元に墻外道見(高田道見)が復演し、改題して発行したもの。