徳翁良高

 西來徳翁高和尚年譜
 西來徳翁高和尚年譜
 徳翁良高
 徳翁良高

 
徳翁良高


西來徳翁高和尚年譜

 

    門人 白龍 良英 良機等 輯録


 慶安二年(1649)己丑

師、諱は良高、字は道山、徳翁と號す。

父は藤氏野州宇都の宮の族なり。其の祖世々、戸祭縣に住す。後、居を武州に遷す。

母は大曽根氏。

是の年八月十九日、師を江府に生む。

兒なりしとき常に佛事を以て戯を爲す。僧伽を見ては即ち戀戀たり焉。人以て宿習を爲す也。


 明暦元年(1655)

師、七歳。兄に就いて書を受く、一(た)び聞いて永く記ふ。


 萬治二年(1659)己亥

師、十一歳。夏五月、父を喪す。


 寛文元年(1661)辛丑

師、十三歳。母、居を于府の盛徳寺の傍らに遷す。師曰くに僧侶に親み、稍く離塵の志し有り。遂に吉祥の良重和尚に投じて、童子の役を執る。暇餘、僧儀を習う。


 寛文三年(1663)癸卯

師、十五歳。夏、佛誕の日、祝髪得度す。


 寛文五年(1668)乙巳

師、十七歳。是の年、盛徳寺に在て、夏を過ごす。禪者有り、維摩経を講す。師、之れを聴す。始めて出世の事、有ることを知る。純ら坐禪を學て、父母未生前の話を看る。間々禪關策進等を閲て以て策勵を爲す。


 寛文九年(1669)己酉

師、二十一歳。秋八月、鐵眼光公、楞厳を海雲寺に講す。聴徒千餘人。師、其の數に與る焉。九月、寂川禪人を伴い、遠の初山に登り、獨湛和尚に謁す。一冬孜孜として参究す。


 寛文十年(1670)庚戌

師、二十二歳。春二月、初山を辭し、黄蘗に到り、隠元和尚及び異朝の諸師を禮す。時に堂頭木庵和尚、戒會を開くに會て、師、満分戒を受く。期畢て攝の天王寺に適て、快圓律師の梵網を講する莚に従う。講罷て墨江に往き、月舟老人を興禪菴に禮す。其の示教を蒙り深く服膺す。尋て泉南に造て蔭凉鐵心和尚に參じ、做工夫の要を問う。心、其の款情を憐み、殊に顧耹を埀る。師、乃ち掛錫し勉強して參請す。

 寛文十一年(1671)辛亥

師、二十三歳。秋九月、東に歸り母を省す。冬、赤山の法泉寺に安居す。


 寛文十二年(1672)壬子

師、二十四歳、春三月、重和尚を吉祥に省す。諸兄弟、之を欸む。師、因に之に従て歳を卒ふ。


 延宝(寚)元年(1673)癸丑

師、二十五歳、春二月、潮音和尚を江府の大慈庵に禮し、心要を咨詢す。音の上州に還に迄て、徃て之に従ふ。日あらずして、音、普照國師の喪に黄蘗に奔る。秋九月、音、還る。禪門寚訓を提唱し、師の輩を十餘員に命して、輪次に復講せしむ。師、乃ち辨論無礙、衆皆な感服す。冬十月、音、四衆の爲に戒會を建つ。受者一千餘人。師、時に引請と爲る。是を以て日夜憒閙なり、以へ爲らく參禪に便あらず。深く之を厭ふ。是の冬結制、師、悦衆に充らる。音、鞭策痛快なり、一衆勉勵し、省力を得る者多し。師、晝夜力て參し悱悱憤憤たり。因に傍僧問て曰く、公、什麼の公案をか看る。師曰く、父母未生前本來の面目と。僧曰く、嘗て力を得や、也た無や。師曰く、也不なり。僧曰く、公試に無字を單提して看よ。師、之を信受し兀兀として無の字に參す。一夜静中、覺へず、無無と叫ふ、心中噪悶し通身汗流る。翌日粥後、偶々経行する方て、忽然として話頭を失却し、胸宇朗朗として、雲開けて天を見るが如し。動定の二相、打定一片、始て知る向きの憒閙、即ち好工夫ならんことを。直に方丈に上り、所解を申ふ。音、曰く、好し是れ多少の省力なり。須く遮裡に向て轉身一回して始て得べし。道ことを見ずや、百尺竿頭に坐する底の人、然も入得すと雖も、未た眞と爲せず。百尺竿頭に一歩を進め、十方刹土に全身を現ん。師、禮して退く、是れ從り胸中又た竿頭を著く如し。寝食倶に忘す、一夜、聖僧前に向て長跪挿香、宵自り旦に達す。身心器界有ことを知らず。偶々香火の指頭に觸るることを覺て、疑滞泮然たり。翌早、威儀を具へ入室禮拝して曰く、夜來好消息、今朝更に自由。音曰く、夜來何の消息か有る。師、匝一匝。音曰く、此れ是れ風力の所轉。師、拂袖して出つ。音曰く、遮の風顚漢。師曰く、劔去て久し。音曰く、自領出去。師便ち歸堂。是れ從り永く馳求の念を歇得す。


 延宝二年(1674)甲寅

師、二十六歳、春正月、音、世尊生下の話を擧して、衆に之を頌せしむ。師、頌して曰く、佛法現前す沙界の中、天を指し地を指して勞して功無し、雲門力を盡して正令を行するも、雪上に霜を加ふ又た一重。音、善しと稱す。秋九月、黄蘗木和尚、再ひ江府の瑞聖に住す。音、座元と爲る。師、亦た之に從て入衆。


 延宝三年(1675)乙卯

師、二十七歳、春、音に從て、館林に返る。是の時に當て、舟老人、化を加洲の大乘に旺にす。秋師適て之に從ふ。日夜參扣増増智證を益す。舟、上堂、師、出て問ふ、至道無難、唯嫌揀擇、何なるか是れ不揀擇。趙州云く、天上天下唯我獨尊と云ふ意旨如何ん。舟曰く、天上天下唯我獨尊。師曰く、還て學人か水を借て花を獻することを許んや、また無しや。舟曰く、試に獻せよ看ん。師曰く、水有り皆月を含む、山雲を帯ずといふこと無し。舟曰く、似たることは則ち似り、是なることは未た是ならす。師、拳頭を堅て曰く、遮個是か不是か。舟曰く、只た遮の至道無難、唯嫌揀擇。師曰く、将に謂へり胡鬚赤と更に赤鬚胡の在る、便ち禮拝。舟、微笑す。一日、舟、從容して師に謂て曰く、汝ち洞濟に歴參すと雖も、素より業を永平の裔に受く、若し流に泝り源を知らば、則、他日老僧に辜負すること勿れと。師、唯唯して拝退。

 延宝四年(1676)丙辰

師、二十八歳、秋、一同參と永平に登て祖塔を拝し、徑に行に勢の皇廟に謁し、遂に畿内の靈跡を観光す。冬、乃ち大乘に還り、偶偶定中の吟を作して曰く、從來家賊防き難しと雖も、識得すれば分明に寃を作さす、四海而今ま清きこと鏡に似り、六窻鎖すこと無して黃昏に對す。後ち道友に語て曰く、此の頌、只た是れ淨潔の毬子に打す、今や一一下語し自ら點破し去ん。乃ち從來家賊防き難しと雖も、頭に迷て影を逐ふ、識得すれば分明に寃を作さす、賊を認て子と爲す、四海而今ま清きこと鏡に似り、百雑碎六窻鎖すこと無して黃昏に對す、鬼窟裡に向て活計を作す。畢竟如何ん咄。


 延宝五年(1677)丁巳

師、二十九歳、秋、大乘を辭し、濃州の長福寺に寓す。冬、萬徳音和尚開堂。師、因に之を省す。音、師の來るを見て即ち問ふ、久く大方に遊し、汝ち卻て新會處有や。師曰く、青山異路無く、東西意に任て遊ふ。音曰く、別に有ること莫しや。師曰く、行ては到る水の窮まる處、坐ては看る雲の起る時。音曰く、玄沙未徹の意、作麼生ん。師曰く、今日親く萬徳に到る。音曰く、不是、不是。師曰く、幸に和尚の不是の説に遭ふ。音便ち喝す。師便ち禮拝。音、一日上堂。師出て問ふ、千林の祥瑞、甘露を灑を待ち、萬象圍遶して法雷を聴んことを要す、好個の時節請ふ師提唱。音曰く、刹説塵説熾然説。師曰く、恁麼ならは則、龍の水を得か如く、虎の山に靠に似たり。音曰く、汝か脚跟下作麼生ん。師便ち喝す。音打すこと一棒して曰く、是れ汝を賞するか、是れ汝を罸するか。師曰く、兩顆の鼠糞拈出するに勞せす。音又打すこと一棒。師曰く、遮個は且く置く、和尚前日玄沙未徹の因縁を問ふ、今日別に一轉語有り。音曰く、試に道へ看ん。師曰く、賊、賊を知る。音曰く、一半を道得す。師、禮退す。音、命して侍司に居す。


 延宝六年(1678)戊午

師、三十歳、春正月、武州川崎村の信士、一庵を建て、萬徳に來て主僧を請す。音乃ち師に命して往かしむ。師乃ち入庵、諸縁を管せす、終日兀兀として宴坐す。


 延宝七年(1679)己未

師、三十一歳、錫州の柳島の臨川庵に轉す。參徒數輩入里乞食共に寂寥に甘す。


 延宝八年(1680)庚申

師、三十二歳、秋、江府に之く。是の歳冬、濃州智勝南鍼和尚、制を結んと欲す。故に今ま殊に使を來し、師の衆に首たらんことを請す。師、乃ち之に應す。立春鍼、師に命して秉拂せしむ。僧問ふ、師、誰か家の曲をか唱へ、宗風誰にか嗣く、師曰く、孤舟月に載て滄浪に浮ふ、清白傳家只た斯の若し。僧曰く、恁麼ならば則、智勝道場に半座を分て大乘室内に宗燈を挑ん。師曰く、事を聴こと眞ならざれば鐘を喚て甕と作す。僧曰く、若し樓に上て望は不んは爭か滄海の寛ことを知ん。師曰く、切に忌む妄りに消息を通することを。僧、禮拝。一衆、其の提唱を聴て甚だ稱歎す。時に舟老人既に大乘を退て洛巽の禪定に隠る。師の立僧の選を聞て大に歡悦す。

 天和元年(1681)

師、三十三歳、春三月、重和尚を歸省。吉祥に遂に衆請に應し、碧巖集及ひ諸祖の語要を講す。秋八月、萬徳音和尚、江府に來り、眞光庵に寓す。師、往て之に謁す。音、大に喜ひ清談日を終ふ。且つ謂て曰く、汝ち久く老僧に參す、然れとも因縁、洞家に在り、宜く扶宗の大志を抱て、既倒の狂瀾を廽すへしと。志、拝辭して去る。


 天和二年(1682)壬戌

師、三十四歳、秋九月、吉祥に在て、請を受け、下総の州、正泉寺に住す。地、陋しと雖も雲衲六七輩共に古風を守り晝參夕究懈ること無し。


 天和三年(1683)癸亥

師、三十五歳、春正月、舟老人を禪定に省す。舟、大に悦竟に師をして入室せしめ、密に衣法并に嚢祖の戒本等を付す。師、拝受して還る。夏四月、総持に瑞世し、便路、卍兄を大乘に、白兄を瑞龍に、嶺公を寚圓に訪ひ、而して京師に詣り綸宣を承く。六月、正泉に返る。秋七月、吉祥の重和尚、病革なり。師、趨て之を視る、僅に一日を越て示寂す。喪事畢て乃ち還る。是の歳五月、母喪す。是に於て大乘妙典を書寫し、毎字一禮、以て之か冥福を追薦す。寺隅、願王堂有り、冬に於て諸を正殿の右に徙し、以て僧堂に擬し而して新に衆寮を構ふ。


 貞享元年(1684)甲子

師、三十六歳、春三月、堂宇落成す。并に本尊の座光を莊嚴し、新に文殊普賢及ひ寚龕を造り、開光安座す。又た藥師地藏の古像有り、頗る損壊す。茲の年し並ひ修飾し安奉供養す。是に於て百廢俱に擧る。夏四月、結制多衆濟濟として丕、永平の宗風を振ふ。緇素慕羶し遠近、希有と稱す。


 貞享二年(1685)乙丑

師、三十七歳、結夏、雲衲七百指、入室請益、顓ら本分を以て之を策勵す。衆咸く精進不退にして稍稍力を得る者有り。鍼和尚訃至る、即ち位を設て拈香、曰く、忽然として霧海に南鍼を失す、渺渺として天涯尋す可らず、唯、濃陽雲外の月のみ有て、夜來舊に依て西岑に耀く。秋九月特に走て塔を拝す。


 貞享三年(1686)丙寅

師、三十八歳、結冬、徳山托鉢の話を擧して、衆に示す。自ら頌して曰く、浪静にして遊魚、水靣に浮ふ、風來て驚起して深潭に入る、嶽を倒し湫を飜し見る可き無し、前三三と後三三與(と)。


 貞享四年(1687)丁卯

師、三十九歳、秋八月、偶々最乘寺に抵り、了庵和尚の塔を禮す。歸路、鎌倉江の島等の名勝を討覽す。

 元禄元年(1688)戊辰

師、四十歳、冬十月、徒を領して化を總寧に助く。寺主、融峯和尚、待遇特に厚し。期満て山に還る。


 元禄二年(1689)己巳

師、四十一歳、夏五月、備の定林、席を虚す。檀越水の谷侯(出羽守)使を總寧に遣し、其の人を選て席を繼んことを請ふ。峯公、師を擧く。師、乃ち之に應す。六月軫を發して西征し、過て禪定老人を省す。秋七月、進山雲衲駢ひ臻り道聲籍籍たり。


 元禄三年(1690)庚午

師、四十二歳、結夏。新に禪堂を建て衆千指に満ち、永瑩の二規に遵行す。檀越増々歸仰し、緇素歸戒する者の勝て計ふ可らず。卍山兄、將に大乘を退んとす。檀越房州居士と胥ひ議して、師をして席を繼か令んと欲す。冬十月、慧嶽法弟をして之を請せ使む。重を禪定老人に假る。故を以て辭すること能はずして、乃ち之を領す。


 元禄四年(1691)辛未

師、四十三歳、春二月、法旆を大乘に移す。三月五日、祝國開堂、海衆一千五百指、法席日に盛んなり。秋、四方竸ひ來り衆を容に地無し。是に於て師、三轉語を以て之を驗む。


 元禄五年(1692)壬甲

師、四十四歳、秋八月、舟老人を興禪に省す。(時に老人、卍山をして禪定に住せ令めて自ら興禪に退く)老人、師の至るを見て大に欣慰し、而して其の化の盛を稱し、且つ賜に偈を以て曰く、萬里神光鍼芥投す、同風句裡來由有り、未た逢はるに施設す千般の語、分付す倶低の一指頭。師、韻を和して之を謝し拝辭して還る。


 元禄六年(1693)癸酉

師、四十五歳、秋七月、江府に之く、蓋し三僧司、官に我か宗結制の規縄を更して定んことを請ふ。故に一宗の名藍甲刹を會して命を奉しむ。大乘も亦た與る。時に府内の緇白參禮する者踵を接す。冬十月乃ち還る。

 

 元禄七年(1694)甲戌

師、四十六歳、純を天童の舊規に則て、入室普説或は學者をして請益せ令む。僧問ふ、南泉猫兒を斬る意旨如何ん。師曰く、露柱血滴滴。僧曰く、趙州艸鞋を載く又た作麼生。師曰く、燈籠閙啾啾。僧曰く、畢竟如何ん。師曰く、頭へ墮すなり。其の應酬大槩此の如し。

 

 元禄八年(1695)乙亥

師、四十七歳、春三月、舟老人、禪定に歸る。師、復た往て安を問ふ。時に愚白卍山の諸昆仲も亦た會す。老人大に悦て曰く、老僧身心疲倦す、餘齢久からず、今日の一會甚た希有と爲す。乃ち後事を囑し守塔の規約を申ふ。各々命を領して而して罷く。遂に卍山兄を鷹峯に訪ふ。夏四月、山に還る。六月、國主菅宰相、勝地を城南に賜ひ、而して寺を遷さしむ。師、即日上堂、喜を叙す。徑に城を造て恩を謝す。初め大乘、數々兵燹に罹り、地を易ること再三。而して狭隘卑□(氵茲土)なり。是より先き月舟卍山共に之を患ふ。檀越房州居士と相ひ議し、疏を作て之を乞ふ。今にして乃ち其の所を得り。師の喜ひ知る可き。已に是に於て衆を率て城野に分衛し、化を緇素に募り、或は衆を領して山に入り、荊蓁を刈夷し、石を曳き、土を搬ひ、力を經營に竭す。已に秋九月、黒瀧、音和尚示寂す訃至る。師、眞を展て供養、文を作て之を祭る。冬十二月、禪定老人宿痾發す。師、使を遣して奉候す。

 元禄九年(1696)丙子

師、四十八歳、春正月、禪定の訃至る。師、對眞擧哀、如法に修禮す。晦に至て喪事既に畢る。二月朔、事に因て(時幣、院に随て嗣を易ふ。師、之を俲ひ肎せず。而して小人の爲に謀らる所なり。殆んと將に於に奸穽に陥んとす。是れ從り遂に遁て從容として遊化す。席暖なるに遑たらず。)院を退く。衆に示して曰く、錯錯錯六年間、夢、怨債を結ふ、春風一陣忽ち吹醒、柱杖子何れの嶺の石にか靠ん、直に禪定に抵て師翁の塔を禮し、遂に備中明崎山韜光庵に遁る。初め師の徒、睡翁此に寓す。今ま師の退皷を聞て、出て松山城に迎へ、請して以て之に居しむ。秋八月、泉南に適り愚白兄と偕し、鷹峯に登り、罪を卍山兄に謝す。九月、備陽に還り、西来庵を里巷に移して、冬を度る。是れ亦た睡翁、預して古基を求て締構する所なり。


 元禄十年(1697)丁丑

師、四十九歳、春二月、備後千手の桂翁長老と同く藝州に遊ひ、國泰に抵る。寺主、慇懃に迎待す。留ること旬日、緇白尊崇し道を問ふ者の日に門に盈つ。遂に嚴島の祠に詣し、還て佛通寺に至り、愚中の遺跡を弔ふ。三原に過り宗光寺に宿す。寺、滄海に臨て宇を構へ、林巒秀偉なり。師、月出て松間風未だ起らず、孤燈獨り照す釣魚の舟と云ふの句有り。去て矢野の善昌を訪ふ。寺主良随なる者は師の參徒なり。是に於て師の枉顧を喜ふ、奉迎特に恭し。夏四月、歸庵。再ひ清瀧の勝地を新見の府に卜得し、乃ち西来庵を移んと欲す。近里相助け址を開く。冬、善昌の良随、再ひ龍洞庵を興して、師を請す。師、二三子と安居す。居士淨光等随喜して之を供養す。是の地や村落を距ること殆んと一牛鳴、而して前靣の數峯畫の如に列り。屋後の懸崖、屏の如に峙つ。松風、諷誦を助け、蘿月、安禪に伴ふ。師時に、興に乘して吟詠す。露、柴扉に滴て、衲衣を濕す、沈沈たる孤月、空圍を照す、暁來睡起して欄外を望は、萬嶽の清霜潔して璣に似り、等の數偈有り。十一月、善昌に就て四衆の爲に戒會を建つ。


 元禄十一年(1698)戊寅

師、五十歳、春二月、福山賢忠寺に遊ひ、信州の節廣眞月の二長老來て相ひ訪に會す。師、其の遠來を感し、之を謝するに偈を以てす。尋て竿頭公を永祥に訪ふ。是より先き頭、長川の獨秀長老と同く謀て曰く、玉島の衆外護を使して庵を建て、師を延き之に居しめんと。今ま師、偶々至る即ち、其の徒、丹山等に命し、師に從す。往て宅を相みせしむ。師、行て柏島の海徳寺に至る。明日、師、寺主活道及ひ獨秀丹山等と、北山に登れは則上に宇有り、觀世音を安す。屋壁剥落すと雖も、基址猶を存せり。冽泉巖下に湧き、奇石松間に雜る。潮音澎濞として天籟鏘鏗たり。遠近の山嶽徃來の檣㠶、城市田園碁の如くに布き、星の如くに列し、其の勝、悉く記す可らず。師、大に悦ひ補陀洛を以て山に名く。圓通を以て庵に命す。二三子をして營構せ使む。而して自ら西來に還る。夏四月、圓通成るを告く。師、徃て入庵して(正徳中、庵改て寺と稱す)夏を終ふ。是の年し遂に西來の舊室を移し、今の寺所に新に大殿厨庫を建て、秋八月、成を告く。即、先師舟老人を請して開祖と爲し、自ら第二世に居る。時に門弟子及ひ外護の居士等、之を會す。是に於て十九日を卜し、陞座を請す。蓋し師の誕日なればなり。師、偈を説て自ら祝するに、壽林頻りに綻ふ、桂花蘂一陣の清風満院香しと云の句有り。冬、十餘輩と安居、邑主關侯(大藏後備前の守と任す)師の徳風を聞て使を遣して温存す。

 元禄十二年(1699)己卯

師、五十一歳、春正月、備後法雲院主海門謁して曰く、今夏、師、弊刹に辱臨して結制安居せよ、敢て請すと。蓋し前の賢忠覺海公の命する所なり。夏四月、師、法雲に就て開堂、清衆八十餘、即ち海門を擧して、立僧たらしむ。秋七月、備後より還る。九月、江府に行て族兄即翁を省せんと欲す。祥麟等を擕て禪定に登り鷹峯を訪ふ。冬、府に到る。翁、大に悦ひ、喜運寺主圓通長老、師を請して淨圓に居しめ(蓋し淨圓は喜運の支院なり)慇懃に之を供養す。

 

 元禄十三年(1700)庚申

師、五十二歳、春正月、吉祥寺の學侶、師を請し、現前師と爲し、戒會を建つ。道俗、菩薩戒を受る者の六千餘指なり。喜運寺主、居士水村宗賢を教化して、師の爲に庵を中丸村に卓しむ。夏四月、宗賢及ひ三名部凉空等、各々其の宅に師を請し供養す。その後ち庵に延ふ。其の地や、林密に境寂し宜く棲息すべきのみ。即名て棲鳳林と曰ふ。偈を作て喜を志、棲鳳林中の趣幽間、紫微に勝れりと云ふ句有り。秋、師、梅峯卍山を江府の族寓に訪ふ。二師、宗弊を嘆し、乃ち官に哀訴して之を正さんと欲す。師も亦た之を謀る。九月、遂に西し備陽に返る。時に法曾邑三上氏、師の爲に壽塔を西来に樹す。慧嶽法弟(嶽、艸庵を神代に建て雲光と曰ふ、自ら開山と爲て之に居る。幾く無して化す。師特に牌を西來の祖堂に入て第三世と爲すなり)先師の霊骨及ひ法衣を帯ひ來て之を寄附するに會ふ。師、大に歡悦し衣は永く常住に鎭す。骨は報恩塔に納む。


 元禄十四年(1701)辛己

師、五十三歳、春正月、道空居士來り省す。因に曰く、願は明年、山に就て結制せは則、弟子、浴室禅堂を建て以て衆に供す可しと。師、其の愨誠を感し、之に諾す。乃ち睡翁をして蠱ことを幹よくす。是より先き、圓通庵に觀音堂を構せしむ。二月、成るを報す。師、嶽弟と同く徃き、三月十八日を以て陞堂慶讃遷座す。既に吉備津の祠に詣し、遂に舩を買て讚州に造り諸勝を周覽す。復た圓通に還る。居士淨光、師を龍洞庵に請し、夏を結んと欲す。會々師遊行して半夏に及ふ比ろにして乃ち徃く。雲衲十餘追陪す。居士も衆に随て禪誦す。師、衆に示して曰く、諸方は九旬禁足、此間は半夏安居、霊山の舊例に依らず、豈に少室の新條を攀ん。山郭水村随縁放曠溪邉樹下、性に任せて逍遥す。然りと雖も畢竟何の慿據か有ん。拂子を豎てて曰く、只た看る六月満天の雪、一點紅爐火自ら凉し。秋八月、艸木村に過る義忠庵主を睡雲軒に訪ふ、金風、晩課を助け、玉菓、朝糇に備ふと云ふの句有り。既にして西來に還る。時に浴室已に成る。是に於て開浴設齋、衆及ひ隣峯に供し、而して預め開山舟老人七周諱の佛事を修す。冬又た圓通に適く。


 元禄十五年(1702)壬午

師、五十四歳、春正月十日、正に舟老人の忌辰に當て、拈香、生平の寃恨卒に雪して難し、宇水茫茫として人を愁殺すと云ふ句有り。是の歳し、新見侯、西來庵を以て寺と稱するに准す。二月、禪堂落す。本邑偶々、池魚の災有り。故に結夏を止んと議す。三月三日、道空居士俄に死す。師、之を聞て感嗟已まず。卒に結制を果す。蓋し其の積年傘?湯の功を感し、且つ此の擧や、居士の發願する所にして、自ら知浴と爲て衆に供するの約有れはなり。夏四月、師、圓通より還る。清衆六百指に及ふ。一日對靈小參、居士の爲に冥福を薦すなり。伽藍狭小なると雖も、而も規則整嚴なり。見聞の緇素愈々益々之を尊信す。秋八月、雲州に遊ひ、伯州に適く。大山杵築等の靈跡を討ぬ。雲樹寺に過て三光國師の塔を禮す。靈光幽に照す影堂の下、秋晩て四林雲樹埀ると云ふ句有り。到る處ろ問法受戒者、蟻の如に集る。九月、西來に還り、又た玉島に之く。武州水村宗賢、乞て曰く、棲鳳林を州の桶川に遷し、師を迎て之を居しめんと欲すと。師、之に從ふ。冬十月、發錫し路ち濃を歴へ智勝に過り、鍼和尚の塔を禮す。十二月、江府に抵る。時に喜運の圓通長老結制、師の偶爾として至るを喜ひ、慇懃に迎待し、衆の爲に開示を請す。師、乃ち陞座、趙州柏樹子の話を擧して曰く、趙州恁麼の爲人實に是れ親切奈何せん、此の僧の舌頭に坐斷すること能はず。人有り、山僧に、如何なるか是れ祖師西来意と問は、他に向て道ん、十字街頭の破艸鞋と。更に如何と問は、柱杖を拈しめ更に打ん、且く道へ、古人と相ひ去ること多少そと。便ち下座。一衆増々服膺す。遂に淨圓に寓して歳を終ふ

 元禄十六年(1703)癸未

師、五十五歳、春正月、喜運の圓通長老、師を請して尸羅會を建て匹衆得戒する者の稱て數ふ可らずなり。二月、比郭谷中に寓居す、今の眞照庵、是れなり。三月、棲鳳林成る。師、往て十餘衆と安居す。是れ則ち居士小高良任なる者の雅より師の徳を慕ひ、宗賢と謀り、其の園を捨て、而して構する所なり。傍て辨天の祠を立て、扁して徳昭と曰く。(蓋し神徳昭昭の語を取れり)水村氏、家を擧て參禮し四事供給す。秋七月、師、又府に適く。八月、官、永平及ひ總持と洞門名刹の長老十餘輩と、則ち梅卍二師訴ふ所を以て、其の是非を質さしむ。然れとも信疑相半にして一是有ること無し。是に於てや祠部阿部侯(飛騨の守)職に當て譲らずして之を斷し、二師の義を以て正と爲す。公卿と胥ひ議し、而して之を上に聞し、竟に代附及ひ院に因て嗣を易る等の事を禁し、乃ち永平總持三僧司等に命して洞門大小の寺院に論告せしむ。師、宗弊の革るを喜ひ、即ち二師と同く官に詣し恩を謝せんとなり。又た護法明鑒を著して詳に是の事を記す。冬十月、棲鳳に還て安居す。宗賢亦た衆に随て參究す。師、其の誠心を感し、而して安陀會(衣?)を付す。


 寚(宝)永元年(1704)甲申

師、五十六歳、春正月、即翁を江府に省す。翁、衰老を以て致仕す。乃ち師に就て度を求む。師、兄の爲に師と作ることを難る。故に黒龍音和尚の位を設け戒師と爲し、而して後ち自ら代て剃度の儀を行ふ。翁嘗て菩薩戒及ひ法名を黒龍に禀くなり。後に師、其の徒、祖燈を遣し、嚫儀を黒龍の眞寂塔前に備へ、書を致して之を報す。住持大綱、答書有り、深く感稱す。三月、棲鳳に還る。後越の慈雲庵主虚白、志賀某と來謁して曰く、師を弊庵に請し、夏を結んと欲す。敢て乞ふ師其れ焉に莅しめんと。師、之を頷す。夏四月、行装して發し三國嶺に到れは、則、山中雪、未た處處花猶發をせさるを見て、行々吟して曰く、緑樹穿ち來る峯幾く重そ、芳菲落盡して薫風に伴ふ、嶺頭驚き見る別の春色、四月桃花雪に映して紅なりと。越に入り、雲洞庵に過り、顯窓和尚の遺跡を討ぬ。既に慈雲に到れは則、虚白及ひ諸外護、之を途に迎へ欽奉して庵に入しむ。師、座に就て示衆。庵主問ふ、圓通大士、圓通門に入る時如何。師曰く、谿聲廣長舌、山色清淨身。主曰く、萬法と侶たらざる底、是れ何人そ。師、闍黎と召す。主、應諾す。師曰く、禮拝著。主曰く、若し流水を得ずは定て、應に別山に過るへし。便ち禮拝。其の垂誨を與り聞く者の、皆な難遇の念ひを發し、而して益々仰讃す。福原氏、情を頎て供給す。清衆六十餘人、茅を巖邉に結て居し、晝夜勉勵し辨道純一なり。四衆求戒の者の山谷、膝を容るに地無し。秋七月、眞成及ひ雲洞、皆師を請し戒會を建つ。授戒の者の記するに遑あらず。八月、松嶺に遊ひて、温泉に浴す。因に松壽庵に就て示衆あり。長岡安禪の素堂長老、亦た請して戒會を建つ。受者、前に倍す。邑主牧野侯、師の道風を聞て、之を其の館たに請し、禮を以て待遇す。而して加るに束帛の贐け有り。洞福庵に過り、湖海和尚の遺像に謁す。翌日、法子悦山、普光寺に請して供養す。冬、髙田城林泉寺に適く。(蓋し師曽て江府に在て請を受く)寺主大白、衆を領して門に奉迎し、延て東堂に居らしむ。四方參玄の徒、師の至るを聞て、風を望て之に趨る。挂搭を免する者の二百五十人、毘尼嚴整なり。見聞随喜の徒ら未曾有なりと稱す。是より先き、師の嗣、元妙、佐州總源寺に住し、特に來て省覲。因に請して曰く、師、法趾を海島に移し、而して廣く化縁を結んことを。師、之を頷す。

 寚(宝)永二年(1705)乙酉

師、五十七歳、春正月、使を遣し、卍山兄古稀の壽を賀す。優曇花發く七旬の春、已墜の宗風挽起して新なりと云の句有り。解後、城中の諸寺各々請し、之を供養す。二月、林泉を辭して萬福に行んとす。直江に抵て雪に阻られ觀音寺に寓止する者の、浹旬已にして便路、彌彦の神祠に詣すれは則、萬福巷長老來て、法駕を迎へ、之に居しむること三旬。戒會を建て陞座を請す。是に於や檀信歸崇供事腆盛なり。信士有り、師の爲に舟を新潟に泛ふ。師、悠然として之に應す。詩を賦し以て其の勝を記す。夏、種月に造り、南英和尚の遺躅を弔ふ。國上山に登り、泰澄大師の像を禮し、慈眼に過る。寺主獨耀、齋を設て之を供す。將に佐州に航せんとす時に、妙長老、小師寬龍をして舩を艤て焉を迎は遣む。四月八日、薄暮に纜を解く、海風微波を鼓し、布帆、半月を掛く、黎明ひに岸に到る。妙、諸檀と象駕を奉迎す。鐘鼓鏗鍧延て、其の寺に歸る。國を擧て瞻禮すること、世尊を舎衛城に覩か如し。乃ち留ること月餘、四衆圍遶す。爲に會を開て尸羅を授く。縣令辻守遊居士、數々來て親炙し、而して和歌を呈め以て所解を述ふ。師、偈を以て之に示す。是に於て増々歸服す。其の餘の僚佐、先を爭て宅に請し、問法供養恐くは之に及は不んことを。師、偏く州中の遺蹤を討ね、乃ち順徳帝の山陵に謁す。閏四月、歸楫を理し、妙及ひ緇素相ひ送て、萩津に至て拝別す。師、還て越後に到れは即、勝尾天樹寺の請に應し、戒會を建つ。四衆、戒を禀くる者一千餘指。五月、新般(シバ)田に過り、岫雲長老を淨賢寺に訪ふ。師の舊友なれはなり。欸留數日。遂に羽を踰り奥に抵り、満願大士を柳津に禮し、會津を經へ白河に過り、日光山に登り、六月、桶川に還る。宗賢、大に喜ひ宅に延て供養す。時に河越長喜院結制なり。因に師を請て衆の爲に開示せしむ。城中の士女來參する者の塗に絡繹たり。秋七月、江府に適く。京極無生居士、常に禪教の諸師と遊ふ。師、素より交り厚し。是に於て懇請して禪門の菩薩戒を重受す。偈を呈して謝を伸ふ。且つ觀音の靈像を棲鳳に寄す。其の相好莊嚴頗る度に稱ふ。又た長野主膳なる者の有り。上宮太子の畫像を奉して、以て眞照庵に安す。其の霊感有るを以てなり。九月、眞照を以て圭峯に囑し、旁ら一室を築き、以て即翁逸老の所と爲す。棲鳳を以て悟融に囑し、而して後ち將に西歸せんとす。道を信州に取り、松本に過る。因に松嶽の節廣長老、邀て其の寺に請し、冬を過さしむ。參徒の者五十人、問法受戒の者の籌、室に滿つ。

 寚(宝)永三年(1706)丙戌

師、五十八歳、春正月、湛然をして江府に之か使め、勝地を卜して眞照庵を徙し、上宮太子の像を鐫て安置す。而して衣資を捨てて永く香火の資に充つ。蓋し師、即翁仙嶺昆季三人と此に至て始て宿願を償ふ。嶺、家に在て夙に靈機を發し、即ち、師に就て得度す。後ち法を蘗門に受く。不幸にして先きに寂す。故に牌を此の庵に安し、第一世と爲す。嗣子圭峯、緒を守り甚た勉む。二月、信州天正の眞月長老、懇請す。師、乃ち仁科に適き之に留ること數旬。尋て靈松寺に上り、實峯和尚の塔を禮し、大澤寺に抵り絶方和尚の像に謁す。寺主石鼎長老、舊交を以ての故に之に待すること甚た篤し。且つ四衆の爲に戒を授んことを乞ふ。三月の交、伊奈に到る。是に於て金鳳の廉公、諸檀と迎接し延て正寝に居ししめ、結制。安衆雲水幾乎一百五十人。乃ち雄禪英を擧て版首と爲す。秉拂提唱を爲さしむ。遠近、道慕ひ尸羅を受くる者の、記するに遑あらずなり。半夏上堂、衆に示して曰く、人間六月甚だ熱すと雖も、駒嶽依然として雪天に満つ、道人の日用實に此の如し、五濁劫中火裡の蓮、參。秋七月、岐岨を經て濃に至り、慧和尚を徳巖に、照公を小松に訪ふ。皆盛禮を以て之に待す。師、照を勸めて開堂せしむ。照は黒瀧の嫡子にして徳臘倶に尊、猶を且つ恭謙黙養、世と竸はす。然と雖も深く、師、舊交を忘れず、再三之を請するの至情を感す。乃ち終に之に從ふ。期るに來冬を以てす。且つ師の焉に臨み、化を助んことを請ふ。師、亦た之を聴るす。照、送て臨川に到て乃ち別る。師、岩崎より舟を發し、勢の皇廟に謁し、八月、京師に抵り禪定に登り、先師舟老人の爲に齋を設け、黄蘗に過て壽山公を緑樹院に訪ふ。語、小松開堂の事に及ふ。山喜色靣に溢る。別に臨て、僧有り問ふ。承り聞く、和尚久く黒瀧に參して、濟水を探る、甚と爲て卻て、洞宗に嗣く。師曰く、靈源の一滴明に皎潔、支派任も他あれ暗に流注することを。僧曰く、畢竟兩派是れ同か、是れ別か。師曰く、處處の緑楊、馬を繋に堪り、家家、路有り長安に透る。僧曰く、謂つ可し、威音前の一箭、兩重の山を射透す。師曰く、切に忌む鐘を喚て甕と作すことを。僧、作禮して去る。師、徑に行て、卍山兄を鷹峰に省す。尋て峨山の潭公、丹陽の嶺公を訪ひ、永澤に登り、通幻和尚の塔を禮す。又た泉南に過り成合の白兄、興禪の堂兄の遺跡を弔ふ。九月、玉島に還り、外護の屬ら師の歸り、且つ龍象從ひ至るを喜び、即ち結制を請す。鑑寺、雄禪、諸外護と胥ひ議し力を勠て、堂舎を指顧に新にす。十月の望、開堂第三番、先師舟老人の爲に乳恩の香を拈す。祥麟の瑞を擧て首座と爲す。十二月、菩薩戒を授く。

 寚(宝)永四年(1707)丁亥

師、五十九歳、春正月、提山をして濃の大慈に問せ遣む。開堂の約を申するなり。二月、師、西來に歸り、邑主關侯に覲す。關侯も亦た使を使して存問し、且つ靈祠を西來に立て、以て先祖に奉することを得んことを請すなり。師、之を聽るす。三月、二三の玄侶を携へ播の書寫及廣峯増位法華山等の靈蹤を探る。遂に有馬に浴す。因に淨光來り省して曰く、日前(サキニ)山を買て頗る佳なり。艸庵を締て而して以て師の偃息に供せんとす。師、若し賁臨を辱せは則ち弟子か願なり。其の孝情を感して之に從ふ。乃ち居士を伴て備後に適く。眞俗遠く邀へ卒に庵所に到れは則、其の境、高爽にして怪たる兮。其の泉風致、愛しつ可しなり。室の正靣に無量壽佛を安す。是に於てや山を永壽と名け、庵を玉泉と號す。參徒三十餘人、晝夜黽勉として參究す。淨光か妻、妙光も亦た雉髪して衆に随ふ。時に衆の爲に開戒、受者、勝て計ふ可らず。夏六月、大慈照公、柏州座元をして報聘せ使む。秋七月、西來の祠堂成る。師、西來に還る。關侯、寺に就て齋を設け佛事を請するなり。師乃ち木主を安て拈香、清瀧巖畔雲晴て後ち、皎月流光碧天に曜くと云ふ句有り。八月、舊痾を作州に浴治す。九月、玉島從り濃に適く。路を山崎に取り、木橋法弟を眞成に訪ふ。時に寂照長老、國侯の命に應し、席を西肥の髙傳に董すなり。即ち特に使を馳せて書を奉し、語録を呈進す。洛に届るの日、越中瑞龍の良準長老も亦た偶々洛に在り。師の至るを聞て即ち旅館に來省す。師、大に忻慰す。已に小松に到れは則、照公衆を率い鐘鼓し門に迎接し、歡躍禮待す。居士龜山氏預め新室を構へ師を延く。師、入居す。之に命して休休庵と曰ふ。直心居士來參し問て曰く、久く師の道風を聞て、今日始て相見、如何なるか是れ相見の事。師曰く、主山は低頭し案山は合掌す。士曰く、相見の事は已に畢る、如何か是れ曹洞宗。師曰く、綿綿密密風を通せず。士曰く、甚麼んと爲てか風を通せざる。師曰く、山僧も也た不會。士曰く、什麼の通し難きことか有ん。師曰く、居士作麼生。士曰く、足下雲生す。師曰く、好箇の消息。又た偈を示して曰く、作家相見の事、露柱燈籠に對す、吾か宗綿密の處、唯た許るす久参の通することを。十月十日、開堂。師、爲に白槌證明す。龍象殆ど二百人。一日、衆、師に上堂を請す。堂頭照公、引座畢て、再ひ皷を鳴し、師便ち座に據る。一衆提唱を聽て大に悦服す。

 寚(宝)永五年(1708)戊子

師、六十歳、春正月、師、歸裝を振として、照、送て臨川に到り、同く音和尚の塔を禮す。(蓋し臨川の者、音和尚示寂の地なり)閏正月、江州の靈水に抵る。寺主演公尼、智勝院等、禮待甚た厚し。留ること數日。二月、玉島に還る。鑒寺雄禪、諸外護と師の爲に壽塔を造り、肖像を安す。大慈照公、使を遣し安を問ひ、且つ謝を伸ふ。播州久學大震公、來謁して曰く、弊刹今茲の冬方に結制せんとす。敢て請す。師、狂顧して之に臨んことを。師、其の誠愨を感し、之を聽るす。夏、備後の功徳寺に安居す。雲衲一百五十人。藏山機を選て、第一座に充つ。秋七月朔、機に命して秉拂提唱せしむ。師、四衆の爲に垂誡。是に於て擧國及ひ石雲二州の道俗參禮する者の、日に市の如し。解制、乃ち西來に歸る。八月十九日、師、六十の初度に値ふ。門弟子集り壽筵を設る者の三日、緇素來賀する者の指屈るに勝へず。師、示衆、壽山□(山酋)崒として永く不盡の春秋を含み、福海渺瀰として常に、無邉の波浪を湧すと云の語有り。復た作州に浴す。九月朔、淨光庵主死す。其の子弟使を馳て訃を告け、且つ師に秉炬を請す。師、其の護法の功有るを以て、之を聽るす。即ち行て永壽に寓し、之を弔葬す。二七等の佛事を修し、而して後ち玉島に還る。又た播陽に趣く。下旬、久學に到る。寺主震公、相迎へて正寢に居らしむ。清衆一百六十餘。師、恙を患こと常ならずと雖も、而れども陞座小參必やなり。時を以す叢䂓肅穆誘接、倦まず。衆に對して惰容無し。醫師診候して謂らく血脈治り、精神健なり。病まざる者の如し。十一月、戒會を建つ。受者未曾有なりと稱す。十二月、稍々起居輕利ならざることを覺す。

 寚(宝)永六年(1709)己丑

師、六十一歳、春正月、少く浮腫を見る。解制例に随て上堂、而も尋常と同からず。竊に世を謝るの意有り。衆皆な惻然たり。十六日、衆と同く去り、田原邨の見性寺に宿す。參禮する者の衆し。十七日、法華山に登り、姫路城に出す。瑞峯寺主邀へ請て禮待し、且つ醫藥を進む。二十五日、玉嶋に還る。緇素競ひ來て問候す。二十七日、師、藥餌を斥く。蓋し其の起きざることを知はなり。二月、書を爲て、訣を關侯及ひ衆外護に告く。關侯、人をして存問せ使るに、禮を以すなり。永壽庵の檀度、岡田氏等来て疾を問ふ。師、垂示諄諄として屬するに護法を以す。師、疾ひ病なりと雖も、然とも蚤を侵して則、起き端正にして坐す。兀として一座の浮屠の如し。客來れは則、對して言笑し、間ま有は則ち巻を執て讀誦す。其の聲朗朗として金石の如し。更闌にして乃ち寢に就く。毎日此の如し。四日の夜、少く心痛を感す。曰く、痛苦漸く迫る。大限遠からずと、越泉の澄に命して、永壽庵を鑒せしむ。居士秋山瀧口等、來り省す。師、其の遠渉を犒(ネギロフ)。六日、昧爽自ら威儀を整へ、而して舊參數輩をして入室せ令む。又た諸徒を集て曲かに後事を囑す。良英を召て大衣を付し、訖て自ら指を屈し、得度の員數次第を記せ令め、乃ち教誡して云く、吾か宗、古來兄弟の座位、或は夏臘の階級を以し、或は瑞世の前後を論し、或は支派の崇卑に準す。吾か徒の如は亦た、必ず嗣法の遅速に依らず。唯た時宜に随て可なり。一個個、時弊に墮せず。伹た大法を以て念と爲よ。居の常ね和合相に住し、道義を失は不れ。違する者は吾か徒に非す。至囑至囑。明日吾れ手を此の言を繕書し、永く龜鑑に備んと申して、告て曰く、吾れ一生世事に於て一切總て管せず。唯た法の爲に心を盡す而已(のみ)。故に正因を昧さず。佛法の化縁、今日に至る。儞か等ら善く護念せよ。又た吾れ滅後の葬儀祭禮、一に亡僧の事例に依し。火後、骨を三處に分かて、西來永壽は預め塔所を設く。本庵の如に至ては則徑に影堂の下に就て石上に薶置し、唯た開山高和尚塔の六字を書せよ。別に木塔を樹て、衣鉢を盛り、像の左に安し、木牌を右邉に置け。其の制、古朴を尚ふ可き已(のみ)。是の夜、佛像を正位に安し、親自(みつから)磬を鳴し、經咒を唱へ、左右をして之を和せ令む。又、自ら之を作る所の願文を誦す。文に曰く、沙門良高一生作る所の悪業、今、三尊の前に於て心を瀝て誠を竭し、一時に懺悔す、又た一生、修する所の微善を以て、専ら西方淨刹に廽向す。唯た願は大慈大悲の加被力を蒙て、悪業に牽かれず、悪趣に堕せず、速に本願力に乘し、早く平生の志を遂げ、臨終正念決定往生還り來て、世間一切の衆を度せんことを。誦し畢て安祥にして寢ぬ。一衆環待す。五更の初め、師、左右を呼て、扶け起さしめて坐す。左右、紙筆を進む。師曰く、是れ甚麼そ。曰く、末後の句を請ふ。師曰く、老僧平日、諸人の爲に説き了れり。如今(いま)更に個の甚麼をか道ん。左右、之を請こと再三。師、乃ち筆を怒(はげまし)書して曰く、大地山河、一堆の塵埃、今日消盡して、分明に跡無し、咄。其の筆力遒勁にして墨色淋漓たり。鼎を扛け山を拔くの勢ひ。七日の早、飛雉近き簷に雊くこと三聲。(本州湯川寺の至ら境、父老相ひ傳ふ、玄賓僧都常に曰く、吾れ再來せは則、雉應に至り雊くへしと。師、定林に住するに日偶々湯川寺に遊ふ。時に羣雉、亂れ雊く。村里、之を怪て視れは則、師至れり。人以爲らく僧都懸讖の應なりと。是より先き、圜通庵の境も亦た雉至ること無し。而今ま始て雊く。人益々以て竒と爲す。蓋し偶然に匪す。)其の聲、人の心肝を動すと曰ふ。師、從容に問て曰く、即今何んの時そ。曰く、且に禺中ならんとす。少選あつて地震こと一震。師、瞠目して衆を視る。晴光横に發して人を射る。良久して瞑目し、怡然として化す。時に白氣一道、直に正寢に當て上下に貫く。村里之を望て則ち師の示寂を識る。實て初七の禺中なり。緇素哀慟して勝へず。龕を留こと三日。顔貌、生るか如し。氣尚を暖なり。瞻禮する者の道路に絡繹として避るに地無し。弟子等、闍維の法に依て從事す。尤も靈異多し。衆目共に瞻し、口碑竸て傳ふ。茲に煩載に勞せず。火後、累累然として五色の舎利有り。遠近、土を淘し沙を汰て、灰燼皆な盡るに至る。師、疾を示してより四月餘を閲すと雖も、未だ嘗て一日も偃臥せず。鶴林の際に臨て、飄然として孤雲野鶴の所繫無き者の如し。嗚嗚、師、多劫曽て、願輪に駕し來るに匪る自は、爭か般若の靈驗、是の如の顯箸、是の如く廣大にして、而して能く天を動し人を感して、眞實にして虚ら不る者の有ることを得んや。吾か軰ら親炙多年平日の言行、目に溢れ耳に滿つ。而して一事の世諦に落る無し。末後一段の漏逗大に人家の男女を魔魅す。今録出して免れず。家醜外に揚ることを。是に至て、其の毀や、水沫を滄海に添へ。其の譽や、土塊を泰山に著く。毀譽都來、諸方の判斷するに一任す。


西來徳翁高和尚年譜終