明治三十二年九月三十日に発行された「荒歳流民救恤圖」(コウサイリュウミンキュウジュツズ)は江戸時代天保年間に起こった天保飢饉の惨事を描いた複製繪卷一巻である。
(参考1)
これは福鎌芳隆が前橋積善会員に呼び掛け発行した複製絵巻「荒歳流民救恤圖」であるが、飢饉の飢民を救い、絵図を描いたのは「渡邊崋山・渡邊登源定静」となっている。
しかし事実は渡邊崋山では無く、京都町奉行所組の与力平塚茂喬が画工小沢華嶽に描かせた絵図であったらしい。
(参考)菊池勇夫 PDF「荒歳流民救恤図」より
「荒歳流民救恤圖序」
世の凶歳を言う者は、先ず指を天明癸卯と天保丙申とに屈す。
而して天保の凶荒は今を距たる實に六十餘年にして、天明の凶荒に之れを比するに、其の慘状の世に傳はるは自ら詳密にして、其の感覺亦た随て頗る多大と為す矣。
先考(亡父)、常に兒輩に語るに其の閲歴する所の天保の菑(わざわい)を以てし、勤倹貯蓄の忽(ゆるが)せにする可からずを訓す。
其の訓言、今猶ほ厳とし、余か耳底に在る焉。
此の凶荒の時に當り、渡邊崋山翁、京師に在りて同志を糾合し官准を経て大いに救恤の事を行う。
是に於て翁、荒歳流民救恤圖なる者を作し、之を其の姪某に與え、後圖轉輾して余家所蔵に歸す。
飢民を収める所の屋舎の光景自り、次第し、以て積屍を桶にし、僧経を誦し、之れを墓に送るに至る。
凡そ十一楮、精神高逸意匠経営悽慘の情、筆々真に迫り、人をして躬親ら其の境を踏むの懐ひ有ら使む。
余時に之を展觀して、先考の訓言を味ひ、以て諸を身に反省す。
是れ豈に徒らに書画翰墨を弄するに心ならんや。
語曰くに遠慮無くす者、必ず近憂有り善哉言なり。
之を概ね五六十年の間、一凶歳有りて、天保の後、幸いに凶歳無しと雖も、天時は人力の能く左右する所に非ず也。
他年、凶荒無しと言うべからず。則ち人、各自、之れが備うる所無くすべからず矣。
或は曰く方今交通自在貿易繁盛我が國一朝、凶菑有り、清米竺穀立ろに輸入す。
豈復、昔時の惨状を呈す哉。
此の説、是れ以て非なり。夫れ往昔在り、則ち糧食盡れば金銭亦、瓦礫に齋し。
今即ち縦ひ物料輸入の事欠けずと言うと雖も、金銭の用うべき無し。
何ぞ飢膓を充を得んや。
況んや亦穀價昻騰を思ざるべからざらん。
之れ大局に觀し、文明日進百事備さに具る之れ今日、應に飢莩、塗横の惨況無きは、論を竢ざるべしと雖も、仔細に之れを考察し飢饉の菑、必ずしも年の豊凶に因る已ならんや。
若し夫れ人々儉素の徳を守らず、備荒の念無く、所得の財貨は即直に之れ散す。
放肆遊蕩苟且愉安、恒心の見るべき無し。
或いは水火震盗の菑、或いは疾病事故、不慮に生じ、則ち忽ち活路を失い祖先祭祀を絶すに至る。
是れ極めて暁の難の理に非ずや。
抑も人を教えるの術、一に非ずして、實事實物に頼って、以て沃く人心を啓し、第一の要道となし、絵画の用、則ち其の實物の後に於いて傳う在り焉。
華山翁の作、啻(ただ)人、倹素の徳を養はしむるのみならず、亦、以て人をして害虫駆除の努むべきを知り、伝染病疫予防の講ずべからざるを覺え使しむに足る。
其の功用、測るべからず者有る也。
頃前橋積善会員諸君、此の圖を觀、世道に益有るの故を以て、梓して以て之れを公にせんと覓む。
余謂らく華山翁の此れ作有り、其の意は盖し後人に教うるに在り。
而して亦、之れを公するは以て先考(亡父)の志しを全する所なり。
即ち其の覓を容れ、圖十一楮及び添屬す所の略記なる者を併せ、悉く之れ前橋積善会に寄せ、且つ梓行發售自り生する所の餘贏は皆な其の會をして、自ら之れを収め使め、窮民施療費の一部に供し、以て前橋積善会の善業の為を欣ふ。
明治三十二年五月謹序
群馬縣士族
従五位勲五等福鎌芳隆 印
山岸嵩謹書 印印
「荒歳流民救恤圖並略記」
天保七年丙申夏雨水災を為し海内一般の凶稔にして米價日々沸騰し秋冬に至て貧民飢餓の者甚多し、之れに加え悪疫流行し道路に餓死する者夥し、目下其の惨状を見るに忍ず於是不肖定静教諭所儒師北小路大学助なる者と謀り普く都下の同志者を募り、官の許可を経て同八年丁酉正月より三條橋南の磧に於て教區の小舎を結ひ是を救小屋と唱へ飢餓の流民を召集し衣食醫薬を救与し死者は埋葬し、翌九年三月に至て止む允十五ケ月間也。救恤する者総て一千四百八十余人、内死亡せし者九百七十四人、死者埋葬の寺院七ケ寺也則
五条坂 安祥院 砂川常林院 縄手西願寺 縄手三緑寺 縄手高對院 寺町今出川仏佗寺 六波羅寶福寺
天保九年四月 田原 渡邊登源定静併記
圖画合計十一枚
明治三十二年五月二十日 着手
明治三十二年八月二十六日 完成 九月二十七日 御届済
明治三十二年九月三十日 發行
著作権舎 群馬縣前橋市北曲輪町十三番地
福鎌芳隆
發行人 群馬縣前橋市向町百十四番地
増田嘿童
印刷者 群馬縣前橋市石川町二十六番地
石版印刷所玄明堂
片平晄太郎
(参考1)
江戸三大飢饉 (参考「武江年表」より)
享保飢饉
★享保17年(1732)
○天下飢饉、疫癘行はる。
○[筠補]万石以下御家人、出羽、陸奥、信濃、越後、越前五ヶ国に知行所之れ有る、布衣已上の御役人は、勤役の内ばかり願い次第御蔵米と御引替下さる可き旨仰せ出さる。但し取り来る知行所は、其の儘領知仕り、定めを以て上納し、山林等は地頭の取箇にすべき旨仰せ付けらる。西国、四国、中国辺、作毛蟲付き損耗、飢人等多き故、万石以上の輩へ拝借金仰せ出され、御廻米等之れ有る。万石已下へも拝借金仰せ付けらる。
★享保18年(1733)
○去年より引続き米価貴し。
○七月上旬より、疫癘天下に行はる。十三日、十四日、大路往来絶えたり。藁にて疫神の形を造り、これを送るとて鉦太鼓をならし、はやしつれて海辺に至る。
筠庭云う、此の時江戸のみならず、海内均しくこれを憂へ、老幼ともに逭(のが)れし 者は、百人中一、二人に過ぎず。古へより未曾有のことなりしと云へり。
○飢饉に付き御救を給はる。
天明飢饉
★天明三年(1783)
○春より霖雨、晴天は稀也。
○六月十六日より大雨降り続き、十七日別けて大雨。千住浅草小石川辺出水、大川端柳橋堕つる。小日向大洗堰石垣崩れ、神田上水切るる。
○信州浅間山火坑大いに焼く。江戸にては七月六日夕、七ッ半時より、西北の方鳴動し、翌七日猶甚だし。天闇く夜の如く、六日の夜より関東筋毛灰を降らす事夥し。竹木の枝、積雪の如し。八日にいたり快晴と成る。(注1)
○此の頃、麻綿価貴し。
○夏より秋迄霖雨、冷気にして帷子(かたびら)を着る日少し(大かた袷衣綿入り衣を着る日多かりし)。
○関東奥川筋飢饉
筠庭云う、奥州筋飢饉なり。川字は誤れり。これは他国に聞こえしより夥しき事にて、津軽領なぢ窮民離散し、富家ある方へ行けるを、粥などの施行も日々増しければ、粮尽きてことはれどども、次第に入り込みしかば、後には穢多を出し、窮民の手を取りて外へ遣しける。山野道路に死骸充満して、目もあてられぬ有様と云へり。猶種々のこと共書きつくすべからず、人肉をも食へりとぞ。
★天明四年(1784)
○諸国飢餓、時疫行はれ、人多く死す(声云う、米価騰貴して、一両に三斗二、三升なり)。
★天明五年(1785)
○夏より秋迄、旱(ひでり)。凶作。
★天明六年(1786)
○早春より四月半ば迄、雨なく、日々烈風にして、諸人火災の備へのみにて安きこヽろなし。
○五月の頃より、雨繁く、隔日の様なりしが、七月十二日より別けて大雨降り続き、山水あふれて洪水と成れり。
○夏より冬にいたり、諸国飢餓。諸人困窮す。
○七月中旬、江戸中燈(とも)し油売り切る。
★天明七年(1787)
○五月に至り、米穀次第に乏しく、其の価貴踊し、市中の春米屋(つきごめや)も售(あきな)う事ならずして門戸を閉ざす。二十日より二十九日迄、雑人、米屋酒店其の余米穀を貯えたる家々を打ち毀す事夥(おびただ)し。
官府より厳しく制し給い、町々にても竹柵を構え、警護厳重になりしかば、暫時に鎮まれり。
筠庭云う、天明元子年以来、打ちつづきたる七年の凶作なれば、寒苦にも馴れぬれば、都鄙もろともに様々の物を調え食いし故、過ぎし卯年の如く、餓死する事もなかりしかど、其の日暮らしの者は百文に三合の米は売らざるより、百計已に尽きぬなど聞こえたり。
○五月、賤民へ御救として金子を賜はり、六月、米、大豆下直(げじき)を以て売らしめらる。
天保飢饉
★天保七年(1836)
○今年四月より日々雨降る。又曇天にて五月に至り霖雨止む時なく、菜蔬生ふる事なし。嵯峨開帳、詣人少なく、看せ物あまた出したれども見物なし。両国橋畔納涼また寂寞たり。七月十八日、二百十日に当たり、旦(あした)より大風雨家屋を傷損す。大川通出水あり。是れより米価一時に登揚し、夫(それ)のみならず八月朔日、先に倍せる大嵐朝より烈しく、屋宇を破り樹木を折り、怪我人あまたあり。近在は水溢る。是れによつて米穀弥(いよいよ)乏しく、諸人困苦甚だし。七月より貧民御救として米銭を給わり、又十月にいたり筋違橋御門外より和泉橋迄の間河岸通りに御救の小屋を営みて、これに居らしめ、食物を給わる(此の節、水油払底になり、小売の油屋は商いを休む)。
★天保八年(1837)
飢餓につき去年より賤民へ御救を下し給わる事度々なり。
(注1)
浅間山天明噴火
▲浅間山焼出せしは、春の頃より始まり常に倍しけるが、別けて強く焼出したるは、六月二十九日の頃にして、望月宿の辺より見るに、烟立ち雲の如く空一面に覆い、炎は稲光の様に見えて恐ろしかりしが、七月四日頃より毎日雷の如く、山鳴り次第に強く、六日夕方より青色の灰降る。夜中より翌七日の朝、大いに降り、鳴る音強く、昼過ぎになり、掛目二十匁より四十匁位迄の軽石の如き小石降り、更に歩行ならず。七時頃より灰降り出し、暫時闇夜の如く人顔も見え分らず、内にては火を燈し、さりがたき用事あれば、米俵をいくつも重ねて頭にかぶり往来せり。然るに二時計り過ぎて空晴るヽと見えしが、又浅間のかたに空へ火の玉飛び上がり、暫くありて小石降り鳴音強く、戸障子はづれ、夜寝る事あたわず。雷強く鳴り、安ン中は三、四ヶ所へ落つる。空へ向いて鉄砲を放ち、太鼓を打ちて雷除けをなす。八日朝四時、闇夜の如く、夫より少し晴れ、往来も見えし。藤岡辺同断、吉井辺にて一坪の所量りしに二石あり。浅間近きに随い大石降り砂も多し。松井田にて三尺計り、軽井沢沓掛追分板鼻の辺迄、二抱え計りの石降り人家を潰したり。故に人思い思いに家を捨て退き、遠くのがれて命を全うせしもあり。小田井大大笹の辺は、猪熊など出て人馬をくらへり。漁師鉄砲にて追い退く。七日夕、我妻辺の山より大蛇も出たり。又九日巳の時、利根川の上吾妻川一時ばかりに水少しに成りしが、暫時泥水山の如く押し懸け、人家跡形なし。中瀬八丁河岸の辺りへ、樹木家屋人馬の死骸流れ寄る事夥しく、其の外の川々焼石打ち込み、水は熱湯の如く、上州一円の民も二、三日昼夜途方にくれたり。信州より上州熊谷辺迄遠近違いあれども、四,五年の間作物ならず。此の間の難にふれて死するもの凡そ三万五千余人と云う。小田井宿は格別の障りなし。西風強くして追分宿へ吹き懸けし事ありし由、「中右記」に見えたり。又元禄十六年十二月にも此の山焼けたれども、此の年の如くにはあらざりしにや。江戸にても硫黄の香ある川水中川より行徳へ通じ、伊豆の海辺迄悉く濁る。依りて芝浦築地鉄砲洲の辺にては、今にも津浪起こるとて大いに騒動し、佃島の男女まで残らず雑具を運びて、陸地に居る事凡そ二日なり。
筠庭云う、上野安名か駅泥土に埋み破滅せしかば、領主板倉侯重代の器物を沽却し国中を治めらる。其の器物の価、二万両と云う。今より見れば廉価なるべし。